お砂糖が溶けた夜に

 鋭いカミソリみたいな冬の風に頬を撫でられて銀時は背筋をぶるっと震わせた。見上げた夜空に星はひとつも見えない。シンと静まり返った夜の江戸の街を歩きながら奥歯ががちがと鳴った。今宵の江戸はまた、一段と冷え込みが酷い。

(あァさみい、さみい。)

 こんな夜は早いとこ家ん中に入りたい、と銀時は思う。
 帰ったら炬燵に潜りこみ、甘いココアが飲みたい。
 うん悪くない、と深く頷いた。
 そのとき、銀時の前方から冬の厳しい風が吹く。温かいものを想像して寒さを乗り切ろうにも、やっぱり寒いものは寒い。首元に巻いたマフラーを指で引き上げ、冷えた頬を覆い隠してみるが、その寒さは一向に引く気配がない。ずびっと垂れた鼻水をすする。

「もしかして、今夜って今年最低気温なんじゃねーの」

 深い群青色をした夜空を一瞥しながら、あーヤダヤダ、これだから冬ってのは嫌なんだよ、と銀時が白い吐息混じりに呟いた。そのとき、銀時の横からフフッと割りこむ声(と呼ぶにはあまりにも柔らかいものだったが)がした。

「なーんでお前笑ってんの」
「だって、」

 銀さんそれ、昨日も一昨日も言ってたわ。今日が一番寒いって。
 銀時の隣に並んで歩く女が口元を緩めると、女の真っ赤な唇が持ち上がり、そっと微笑んでみせた(その、化粧によってつくられた妖艶な笑みが、昼間に見る女のそれと全く違うものだから銀時はいつも戸惑うはめになるのだ)。

「そうだっけ」
「ええ、そうでした」

 そうでしたとも、だって私しっかり覚えてるもの、と得意げに女が頷くので、銀時はバツが悪い。昨日も一昨日も、毎晩仕事で遅くなったこの女を迎えに行った記憶はあるけれど、隣を歩く女のきれいな横顔以外あまりよく覚えていない。
 俺も歳かねぇ、と眉根を寄せた銀時の隣で、ぱちぱちと女が目をまばたく。

「あら、銀さんは忘れちゃったんですか」
「忘れんのが普通なんじゃねーの。自分が言ったこととか、日常の意味もねえ言葉なんて、そんなものイチイチ覚えてらんねーだろ」
「そういうものでしょうかねえ」

 はて、と言うように女がこくりと首を傾げて、上目遣いで銀時の方を見やってくる。思わずぐっと銀時の息がつまる。
 これらの一連の動作がすべて、狙ってやっているのではないところがこの女の恐ろしいところだ。

「立派な脳をお持ちですねオネーサン」
「ええ。私は貴方と違って、クルクルパーの脳みそしてませんから」
「へぇ……ってオイこら」

 聞き捨てならないことを言われて、思わず立ち止まる。半歩遅れて路地に立ち止まった女が振り返り、銀時はまっすぐその顔を見つめた。
 クルクルパーって何だ。天パの意味か頭の意味かハッキリしろバカヤロー、それとも両方なのかコノヤロー。銀時が恨みがましい目を向ける。が、女はさして気にした様子もなくニコニコと笑って言葉を続ける。

「銀さん、貴方は駄目なひとだわ」
「はいはい、悪かったな。クルクルパーの脳みそで」
「なんだか理不尽よ」
「……あァ?」

 女の言葉は唐突だった。
 深く暗く、冷たい夜の中に潜ったように女の表情が強張る。
 なんだなんだと驚く銀時の目の前で、強張った微笑みを称える女の表情の裏には、明らかな怒気が見え隠れして見えた。
 女の仕事着である葡萄色の着物に隠された、ギリッと強く握った女の拳。女は静かに怒っていた。

「ずるい、わ」

 銀時と女のふたりだけが立つ、静けさが満ちるような夜の街路。そこに突き刺さるかのような、刺々しい女の声。しかしそれとは裏腹に、女は今にも泣いてしまいそうな顔をしていたものだから、銀時は激しくうろたえてしまった。

「オイお前、どうした」
「……銀さん、の、ばか」
「お妙?」
「私は、貴方の言葉、全て覚えてるのに」

 その言葉を聞いたとき、「え、」だか、「は、」だか。銀時の口からはそんな声が出た。
 呆けてポカンと口を開ける自分の姿は間抜けだろうが、仕方がないだろうと銀時は思う(なに、そんなことか)。
 ああ、参った。この女にはいつも、参らせられるはめになる。女がこんなことを言うだなんて、思いもよらなかった。

「あー…、その、なんだ。悪かったよ」
「……」
「これでも銀さんもうすぐ三十路だから。まァ、そんな毎日のことなんて覚えてらんねーわけ。あー、いや、でも、」

 お前の言葉ぐらいは覚えててやるよ。
 銀時がそれを告げた途端、女がハッと息を飲む気配。俯いていた女の前髪から、闇色の瞳がのぞく。街路に立つ電柱の蛍光灯を反射して、それがキラキラと光った。
やがて、

「……覚えててやる、なんて、」

 なんだか上から目線でムカついたわ、と女が言う。それから女の唇がつりあがってみせて満足気に微笑む。どうやら機嫌は治ったらしい。

(私は貴方の言葉、全て覚えてるのに)
(お前の言葉ぐらいは覚えててやるよ)

 今の二つの台詞を口の中で反芻して、飲み込んで。なんとなく照れくさくなって。冷たい鼻頭を指先でポリポリと掻く。
 ああこれではまるで愛の誓いのようだ。なんて、我ながら「らしくない」ことを思ってしまった。
 夜風に冷えた己の鼻は、さぞ赤く染まっていることだろう(決して照れのせいで染まったわけじゃないのだ、己の鼻は)。

「あら、銀さん。お鼻が真っ赤よ」
「うっせえ、お前もだろーが」

 女は目ざとい奴だった。真っ暗闇の中でも、銀時のことをしっかりと見ていた。それを悔しいと思う反面、嬉しいと思う自分がいることに辟易する。
 これだから冬は嫌いなのだ。と、最終的に全ての責任を冬に押しつける。
 しかし、冬もそこまで嫌いだとは思わない。

(さあ、早く帰ろう。)

 早く帰って、炬燵に入ろう。この女と一緒に。それからテレビをつけてココアを入れて、ココアの粉入れすぎですよ、なんて注意されながら。この寒いさむい夜をゆっくりと温かく明かそう。
 そんなのも悪くない。そう思える夜だった。


#原作
お砂糖が溶けた夜に '110122
title ジューン
Powered by てがろぐ Ver 4.4.0