傘はひとつだけでいいよ
春に降る雨は、しとしとと長く降り続くものが多いのだそうだ。今日の晩から降り始めた春雨は、深夜を過ぎても止む気配を見せないでいる。この様子だと、先日ようやく咲いた桜も今日明日の内に散ってしまうかもしれない。それは困る。万事屋はまだ花見に出かけていない。
歌舞伎町を傘を差して歩く。足を踏み出すたびに足下で跳ねる泥水が鬱陶しくて堪らなかった。あたりに充満する雨の日特有の湿気も鼻をツンと刺す生温い匂いも、銀時は決して好きになれそうにない。
本音を言うなら、何が嬉しくてこんな雨の夜に外なんて出るものか。
(新八のやつめ)
全てはアイツのせいだ、と心中で新八を呪った。
夕方、障子の張替えの仕事が片付いた頃。帰り際に、今にも雨が降り出しそうな空をふと見上げて。新八が呟いたあの一言(「そういえば姉上、ちゃんと傘持ってるかなぁ」)が、ずっと銀時の頭から離れないのがいけない。
もしも、もしもの話だ。彼女が傘を持っていなかったら、どうする。彼女はタクシーを使いたがらない。それで下心のある客に「送っていくよ」とでも言われて無用心にも車に乗った挙句、変な所にでも連れ込まれたら、どうするのか。そんな、過保護な父親のような心配を銀時はしているのだった。
足元を照らすにはどうにも心許ないネオンの光を頼りに、暗夜行路を銀時はひとり歩き進む。
その時だった。ぱしゃんぱしゃんと、向こうから誰かの足音が聞こえた気がして。銀時は深く被るようにしていた傘を軽く持ち上げ、目の前に広がる濃度の深い闇に静かに目を凝らした。
「あ、」
「……あら、」
銀さんじゃないですか、と、銀時と同じように傘を目線の高さまで引き上げた妙がこちらを見やる。銀時の姿を見つけて、たいそう驚いたように目を真ん丸くしている。
しとしとと降っていた雨はざあざあに変わっていた。そうやって雨の勢いは増しているのにも関わらず、離れた場所から妙が銀時を呼んだ声はやけに鮮明に聞こえた。
「どうしたんです。こんな夜更けに」
「どうしたもこうしたも……」
思わず口ごもる。お前が心配で来たのだと、素直に口にできるほど銀時は真っ直ぐな人間ではない。であるから、こういう時にはなんと答えたらよいのか分からない。銀時は口をつぐんでしまうはめになるのだ。
言葉を詰まらせる銀時の様子に、ぱちぱちと瞬きを繰り返して、妙はへんなものでも見るように小首を傾げる。そんな子供らしい仕草も、葡萄色の着物をまとってきっちり紅を唇に引いている彼女がすると艶かしさを孕んだ仕草に見えてしまうのだから不思議だった。
「ねェ銀さん。もしかして、私を迎えに来てくださったんですか」
「……いらねえ心配だったみてェだな」
妙が差している折り畳み傘を眺めて、銀時は一言。あちらには非があるわけではない、銀時が勝手な心配を押し付けてしまっただけである。それでも、意識しなくても自然と声は不機嫌さを含んだものになった。
どうやら、新八の心配は杞憂だったようである。妙はちゃんと傘を用意していた。
我ながら馬鹿だな、銀時は思う。何から何まで器用にこなしてしまうこの女が、折り畳み傘のひとつやふたつ用意していないわけがないのに。
雨で普段より二割増しでくるくると跳ねる髪をがしがしと片手で掻いて、ちぇ、と舌打ちをひとつ。
(あら、あら……?)
銀時の様子がおかしいことに妙はすぐ気がついた。傘を差した妙の視界、自分と同じように傘を差している銀時の顔が面白いほどに歪んでいるのである。
目と眉をぎゅっと細めた銀時は、なにやら忌々しげな視線を何処かに向けている。その視線の先を辿ってみると、妙が差している折り畳み傘があったものだから、妙は声を上げて笑い出しそうになった。
「すいません、もうちょっと詰めてもらえませんか?」
妙はその場で折り畳み傘を畳むと、濡れないように、銀時が広げるビニール傘の中にひょいと飛び込んだ。
詰めてくれないと着物が濡れてしまうでしょう。汚れたらあとでクリーニング代請求してやりますからね。くすくす笑いながら妙がそう言って見上げると、戸惑う色を隠せない銀時の瞳と目が合う。
「お前、傘持ってんじゃん」
「ええそうね」
「そうね、っておい」
困惑する銀時に向けて、妙はにっこりと微笑んでやる。これでいいんでしょう、と。
何もかもを見透かされてしまったのが悔しいのか、隣に立つ銀時の口がわずかに尖がるのがわかった。妙はまた笑いが込み上げてきたけれど、なんとか堪えた。ここで笑ってしまったら銀時に失礼だ。
「文句のひとつふたつ言って下さいな。でもね、わたしだって言い分があるわ、銀さん」
妙はそっと、畳んだ折り畳み傘を手提げの中にしまう。
「銀さんは、元々こうするつもりで来たんでしょう? だって、」
傘、一本しか持ってきてないじゃない。まわりの暗闇は二人の姿をも覆い隠してみせるけれど、今や二人は一本の傘の下にいるのだ。お互いの手元はしっかり見えている。銀時の手元には差している傘以外なにもないことくらい、となりの妙には簡単にわかる。
それを指摘してやれば、銀時は白々しく「忘れただけですぅ」と言ってそっぽを向いた。
嘘をつきなさい。やましい考えがバレバレですよ。そう、妙が口を開きかけた矢先だった。隣を行く左手に妙は右手を掻っ攫われてしまった。
しかもそのあとに、重心がこちらに傾いている傘を頭上に見つけたものだから。ついに妙は何も言えなくなってしまう。唇はただどうしようもなく、むずむずと疼くばかり。
#原作
傘はひとつだけでいいよ‘110414
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