きっと誰もがみんな誰かの特別になりたがり

一つしかない(それもかなり小さい。だから夏場は換気が上手く出来ないのでここは地獄と化すのだ)国語準備室の窓が、カーテンと共に真っ赤な茜色に染め上がった頃。
委員会があって遅くなったんですと一言を添えて、今日の日直係である少女が日誌を届けにやってきた。
読みかけのジャンプやらイチゴ牛乳の空パックが転がる机に対して、「ちょっとは片付けたらどうですか」と要らぬ一言をくれてきたあと、銀八の手元に目をやった妙は大げさに驚いた顔を作ってみせた。
怪訝に思った銀八は、「なんだよ」机の上の空いたスペースで書類の束と格闘していた手を一度休める。

「いえ、いつもはアレな先生がちゃんと仕事してるなんて珍しいなと思って」
「アレって何。珍しいって何」

俺だってね、一応教師なんだから仕事くらいするわ。と銀八が返せば、だったら普段の授業もちゃんとしてくださいと痛い所を突かれた。むぐ、と言葉につまった。
銀八が顔を歪めると、目とこめかみの辺りがズキズキと痛んだ。思わず指で目元を押さえる。ついでに欠伸がふぁあっと口から出て、目尻から零れた涙を白衣の袖口で拭う。

「お疲れみたいですね、珍しく」
「だーかーらァ、最後のは余計だっつーの」

珍しく、の部分を言う時の声を強調されて、なんだか居心地悪い。くしゃくしゃと頭を掻き上げて、どうしてこう、この少女は可愛げがないんだろうかと、銀八は思った。口には出さず思うだけに止めた理由は、単純に命が惜しかったからである。
込み上げる欠伸を噛み殺したところで、突然、ぴとりと冷たいものが銀八の頬に触れてきた。
銀八が視線を動かすと、こちらに手を伸ばしている妙が立っていた。
頬に手を当てられている、と、状況を理解するのに結構な時間を要した。

あらまあ本当にお疲れみたいですねえ、と銀八の顔を覗きこむ妙が他人事のように呟く。

「顔色悪いですよ、ちゃんと睡眠時間とってます?」
「・・・あーうん、まあ」
「そうですか。でも、くれぐれも無理はなさらないでくださいね」

頬に当てられていた手は次の瞬間にはパッと離れた。触れていたのはほんの二、三秒の間だった。それなのに、頬には大きな熱が生まれている。それを悟られやしないかと銀八は内心でヒヤヒヤしながら、「おー」となんでもないように返事をする。
この少女には強い目力がある。
だから、彼女に近距離で覗き込まれてしまえば(しかもそのあとにニコリと笑いかけられたりなんかしたら)、ドキリの一つや二つやしてもおかしくないだろう。
なあそうだろう、不可抗力なのだ、と銀八の頭は言い訳のように言葉を繰り返す。
実際は、一つや二つのドキリじゃ済まなかったのだけれど。

「・・・お前ってさァ、」

ふーっと、無意識に溜め込んでいた息を吐き出す。

「他の奴にもこういうことすんの」
「こういうことって?」

こてんと首を傾げる妙は、何にもわかっちゃいない無垢な目をしている。それが銀八は気に食わない。計算してないんだったら、どんだけ天然なんだこの小悪魔め、と内心で毒づいてやる。
きっとお前は、押し殺した俺の窮屈な感情なんてこれっぽっちも知らないんだろう。そう考えた途端に、銀八はどうしようもなく悔しくなるのだった。

「いや、・・・いい。なんでもない、今のは忘れてくれや。日誌ご苦労さん」

帰っていーぞ、ヒラヒラと手を振る。なぜだか、今は無性に煙草が吸いたい気分だ。しかし生憎、銀八が着ている白衣のポケットの中に煙草はない。あるのはイチゴミルクの飴玉くらいだった。

「それじゃあ、帰りますね。・・・お疲れ様です、銀八先生」

そのまま帰ってしまったら、どれだけ良かったことか。志村妙という少女は残酷だ。
もう一度こちらにあの手が伸ばされた、かと思えば、お疲れ様ですの声に乗せて、優しい指が人の髪を撫でていった。慈愛に満ちた心地よい声色で名前を呼ばれた。

その指先や声に、愛おしさがこもってるんじゃないかと、自分は彼女に特別扱いされてるんじゃないかと、馬鹿な勘違いをした可哀想な男は数知れず。
そして自分もその可哀想な男の内の一人なのだとしっかり自覚している。
ポニーテールの揺れる後ろ姿。バタンと国語準備室のドアが開閉する音と廊下から遠ざかっていく足音を聞きながら、銀八は苦笑をひとつ。

(・・・今みたいなことも、他の奴等にも平気でやってんのかねえ。)

アイツのことだからあり得るなあ、と、椅子の背もたれに体を預けた銀八はぼんやりとそんなことを考えている。
銀八の頭にはまだ、帰り際に触れた妙の手の感触が残っている。お疲れ様ですと言った声の温かさも。それらが今の銀八にとっては非常にやるせなくて仕方ない(そういえばまだ、「他の奴等にもやるのか」という質問の答えを聞けていない)(願わくば、先生だけですよって言ってほしかった、なーんて)。


#3Z
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