指を絡めてどこにも行けない私たち
煙草を買ってくると言ってレンタカーを路傍に停車させた先生は、朝早くから営業しているパン屋さんの紙袋を小脇に抱えて運転席へ戻って来た。中身は焼き立てのバターロールだ。甘くて香ばしい匂いが車内に充満し、口の中に唾液があふれてくる。よっぽど物欲しそうな目をしていたのだろうか、私の顔を見るなり「食い意地が張ってる」と先生は笑った。パンの一つを受け取り、バターがたっぷり練り込んであるそれを私が頬張ったのを合図に、車のエンジンがかかった。殺風景な雑木林に囲まれた国道を走る。車窓の隙間から朝の空気を吸い込めば、ほのかな潮の匂いが鼻孔を抜けていった。海が近いのだろう。レンタカーのナビが知らない土地の名前を告げる。目的地はどこなのか。どれくらい走るのか。聞く必要はなかった。先生と一緒ならそれでよかったから。それでよかったのだ。
「――――あ、」
カーテンの隙間から射す眩しい朝日が、私の意識を無理やりにでも現実に引き戻そうと躍起になっていた。不満たらたらにベッドから起き上がり、部屋の窓際に大股で近づく。最悪の目覚めを迎えた苛立ちのまま(いっそ千切れればいいと思いながら)カーテンレールを強く引っ張ると、仮初めの夜の帳が降りる。薄暗い室内に、なにも身につけてない己の身体だけが白く浮かび上がる。眠る前に脱がされたグレイのスウェットがちょうど足元に落ちていたので、拾い上げて頭から被る。そのあいだ、さっき見たばかりの夢の内容を反芻していた。
レンタカーを借りて知らない町を先生と旅する夢だ。国道沿いのガソリンスタンドで飲んだ缶コーヒーの記憶を最後に、そこから先は覚えていない。夢の中の私たちは無事に無事に目的地に辿り着けただろうか。
ベッドに戻ると、床に投げ出された旅行用のボストンバッグがいやでも視界に入ってしまう。見ないフリして、裸で寝る恋人の隣に潜り込んだ。
今週末は先生とお忍びの遠出をするはずだった。残念ながら、計画は失敗に終わってしまった。あれは家を出たすぐのことだ、新幹線に乗るために向かった駅前で私はクラスメイトの姿を目撃し、足が竦んで動けなくなってしまった。
この連休中に実家や親せきの元に出かける者も居るだろう。私たちの行き先に知り合いがいない可能性はゼロではない。ふたり大きな旅行鞄を抱えて、ここまで腕を組んで歩く姿を誰かに見られやしなかっただろうかと思い至ってゾッとした。
後ろ指をさされるような恋愛をしている。その自覚が私には足りていなかった。教師と生徒。私たちの関係が孕む、社会的な危うさに今更のように怯えた。
震える私の背中を撫でながら「帰るか」と言った先生も、同じ気持ちだったのだろうか、私が頷くとわかりやすく安堵の色を顔に浮かべた。
窓を閉め切り空調を効かせたアパートの一室。予約したレンタカーも宿もキャンセルして、二人じゃ窮屈なシングルベッドの住民と化した私たちはタオルケットをかぶって退屈な連休の夜を過ごした。
怖いものなど一つもないような顔で秘密の恋をどこか楽しんでいた私は、今回の件ですっかり落ち込んでしまった。だからあんな夢を見たのだろう。我ながらあまりにも思考が単純すぎた。
先生と私が、教師と生徒であることを誰ひとり知らない町に行きたい、なんて。バカみたいだ。どこにいたって不安は尽きないに違いなくて、安寧の地なんかどこにもないのに。気づいてしまった瞬間、ぐんにゃりと視界がたゆんだ。目尻からこぼれた涙が枕を濡らす前に、暗闇から伸びてきた先生の指がすくい取った。いつから起きていたんですか。
おはよ、と先生は言った。涙の件には一切触れてくれないやさしさと薄情さに、私は今度こそ涙腺が壊れそうになる。
朝飯どーする、と尋ねてくる先生の無精ひげすら愛おしい。共にあるだけで日々こんなにも胸が苦しいのに、どうしたってこの人のことが嫌いになれそうにない。ひとときも離れがたくて困る。
夢の続きが見たかった私は、「バターロールパンが食べたいです」と言った。
#3Z
指を絡めてどこにも行けない私たち '20200826
2024年新刊「ゴースト・イン・マイ・ベッドルーム」を書く元になった話です。