アイスノアジスル
江戸の夏が本格的に猛りを増す七月の今日は月曜日である。こんな暑いのに外出するなんて正気ですか、いい機会ですからアンタもうジャンプ卒業したらどーなんですと呆れる新八の声を振り切り、俺は今週号のジャンプを買うべく熱気立ちこめる真っ昼間のかぶき町へ飛び出したのだが、さっそく後悔すること山のごとしだ。熱中症が怖くてジャンプが購読できるかバッキャローと吠えて、さんさんと照りつける太陽に中指を突き立てるほど余裕のあった数分前までの銀さんはどこへ消えちまったんだろう、所詮俺は威勢の良さだけが一丁前の半端モンなのだった。外に出ると口の中がカラッカラに渇き、暑さダルさに文句いう余裕もなくなって閉口した俺はひたすら黙って歩く死体と化している。万事屋唯一の冷房装置である扇風機は文明発展著しい江戸において最早オーパーツ化した代物だが、こうして屋内外の気温差を思い知らされると、一応あんなのでもあるだけマシだったとわかる。最近は強ボタンを押しても微風しか吐かない反抗期真っ只中のアイツだが廃品回収に出すのはやめてまだまだ現役で働いてもらおう。
外が暑すぎて、一歩前進するごとに体力をゴリゴリ削られていく。本来なら徒歩数分のコンビニまでの道のりがさながらガンダーラのごとく遠く果てしないものに思えた。そして、ようやっとコンビニにたどり着くも、最悪なことに今週号が売り切れだった。せっかくここまで来たってのに諦められるワケないので、別のコンビニを目指すことにした。謎の人だかりに遭遇したのは、その道中でのことである。
暑さでぼやける俺の視界に、健康的な小麦色の肌がちらついて眩しい。Tシャツにタイトなミニスカ姿の女たちが、ハイどーぞォと微笑みかけながら群衆の一人ひとりに何かを手渡している。そんな光景を見た俺はすぐピーンときた。赤い翼的あるいは怪物的なエナジードリンクを無料配布する企業活動を近頃よく見かけるから、これもその類だろうと。ちなみになんで覚えていたかと言えば配布係のネーチャンが総じて可愛いせいだ。あとケツ。スタイルが滅茶苦茶に良い。
涼しげな恰好したネーチャン集団の一人が、ぼうっと突っ立っている俺に気づいて近寄ってくる。
声をかけてきた女はシルエットこそ地球人によく似ているが、サンバイザーの奥から覗く金色の瞳と、手指の水かきで天人だとわかる。
人好きのする顔で女がニカッと笑った。
「お兄サン、甘いもの好きそうな顔してるね」
「あーわかる? 俺くらいになるともう顔から滲み出てるよね、糖が」
得意げに返せば、ますます笑顔になった女は「そんなお兄サンにうちの会社の新商品をプレゼント!」と言って、保冷機能付きのリュックから商品を取り出した。
それは、一見なんの変哲もないカップアイスだった。茄子色の蓋にカラフルなフレーバーカラーのパッケージ。商品名こそ異星の言語だが、質素な飾り枠に主張の激しくない高級感あるロゴは既視感ありまくりだし、俺の知り合いの女が好んで食べているアイスの見た目に酷似していた。
「なんつー危ないもん作ってんだよ、おめーらの会社!」
「ノンノン心配しないで。毒なんて入ってないし安心安全だから!」
「成分的な意味じゃねーよ利権的に危なくねェかって話をしてんだよ」
「リケン?」
ちょっと意味わからないなーという顔をされた。わかれよ。本家にちゃんと許可取っているかなんて聞くまでも無さそうだった。
さあ受け取れとアイスを差し出す女に、俺は断固としてノーを突きつけてやる。
「エッいらないの? 無料なのに?」
「タダより怖いもんはねェだろ。それ食って犯罪の片棒担がされんのは勘弁な」
「まァまァ遠慮しないで、一口だけでも!」
ちっとも引かない女はアイスの蓋をパカッと開けてみせると、カップの中身を試食用のスプーンにすくって差し出してくる。
「あーん♡」
バニラのあまい香りに鼻孔を刺激されて、ずずいっと唇の寸前までスプーンを持ってこられたら、思わず食いついてしまうのも仕方ないんじゃないだろうか。不可抗力だ。
女がスプーンを運ぶ手を止めないので二口目、三口目と食べ進めてしまい、気がつくとカップの半分までアイスを平らげていた。しまったァァァァと頭を抱える俺に「お兄サンひょっとしてバカ?」と女が肩をすくめる。バカで悪かったな!
「で、試食の感想は? おいしかった?」
「うまい。うまいに決まってる。だって完全に一致だもの。完全にこれ破亜限堕津なんだもの。見た目だけじゃなく味もそのまんまとか完全にアウトじゃねェか」
「は~げん?」
あくまで知らぬ存ぜぬを決めこむつもりなのか、それとも無知なのか判断つかないけれども、どちらにせよ炎天下で商標法について長々と説く気力も無い俺はこの女を見逃すことにした。そのうち市民に通報されるかパトロール中の真選組に事情聴取されて取っ捕まるのがオチだろうなと思う。
パチモンだけど美味かったぜと感想を告げて俺は当初の目的であるコンビニへと向かった。
たでーまあと帰宅すると、万事屋の玄関に、家を出る時には無かった女物の草履を見つけた。
「いまちょうど姉上が来てます」
おかえりなさいと出迎えた新八が嬉しそうに来客の正体を明かした。お前が来ると新八や神楽が喜ぶからいつでも来たらいい(ついでに甘味があるともっといい)と俺が以前に言ったことを、お妙は律儀に覚えているのもしれなかった。でもわざわざこんな暑い夏の日に顔を出しに来るなんてマメな奴だなと思う。
新八と、彼の背後からぴょこんと現れた神楽に、俺は手に持ったコンビニの袋を掲げて見せた。
「オラ。銀さんに感謝しろよ、おめーらの分のアイスも買ってきてやったぞ」
「ありがとうアル! でもどーしよ、ケチな銀ちゃんのことだからアイスちょうど三人分しか買ってないんでしょ。きっとアネゴもアイス食べたいはずネ。このままだと新八が食べる分が無くなるヨ」
「ちょっとォォ! なんで自動的に僕の分を勝手に姉上にスライドさせてんだよ!」
平等に半分こしようとか、サドンデス方式一択だとか意見が割れて、目の前で取っ組み合い(というより新八が手を出さないから一方的な神楽のリンチだ)を始めてしまったふたりに、うるせーうるせーと俺は耳を押さえた。
「ギャーギャー喧しいんだよ。足りねーんだったら俺の分をお妙に渡せばいいだろ」
「「え。」」
水を打ったように場が静かになった。目を丸くした新八と神楽が見つめてくる。
「銀さん、どうしたんです。アンタがそんなこと言うなんて夏に雹でも降るんですか」
「マジでか。最悪アル。家事当番わたしだから洗濯しようと思ってたのに」
「馬鹿言ってんな。なんか俺、アイス食べる気分じゃねーんだよ、つーか体調悪ィ……」
急に視界がかすんで、万事屋の玄関が薄暗くなる。
己の体調の変化に気づいたのはコンビニからの帰り道だった。屋外は暑いのに、なぜか身体の芯から冷えていくような寒気を覚えて、こうして屋内に入れば少しはマシになるかと思ったけれども症状は回復するどころかひどくなってきた。
その場で新八に肩を貸されて俺は応接間のソファに運ばれた。熱中症なら脱水症状を起こしてるかもしれないと新八が麦茶を取りに台所へ消えて、神楽はぐったりした俺の脇に体温計を挟む任務を終えるとすぐに俺が買ってきたソーダアイスをシャクシャク食べはじめた。いい御身分だな。
「大丈夫ですか?」
ソファの横に立つお妙が心配そうに声をかけてくる。そういえばコイツ来てたんだっけ。
「新ちゃんに言われて、寝室に銀さんのお布団敷いてきましたよ」
「おお、サンキュな。そしたら俺ちょっと寝るわ。お前の好きなダッツじゃなくてワリーけど、アイス買って来たからテキトーに食べてて」
「俺の分やるよ」と言えば、眉間にしわを刻んだお妙が「これは重症ね」と深刻そうに言った。新八たちといいお前といい俺をなんだと思ってんだろう。甘味を優先しない俺はそんなに珍しいですか。
「夏風邪か熱中症かしら……あら、冷たい?」
お妙の指が俺の前髪をかきわけて、額にぬるい温度が触れた。
「なんだろーなコレ。熱中症ってこんなんだっけ。なんかすげえ寒いんだけど」
「銀ちゃん風邪で頭おかしくなったアルか」
「ついでに体温計もおかしいアル」と神楽が取り出した体温計は35度台を示している。低体温症寸前だ。なにかおかしいぞと全員が怪訝な顔をしていると、
『速報です。不正輸入した食品を無許可で路上販売していたとして、アイスクリーム屋を名乗る××星の一団が本日正午過ぎ真選組に逮捕されました』
ワイドショーを垂れ流していた万事屋のテレビ画面がニュース速報に切り替わり、花野アナの中継映像が流れはじめる。現地では手錠を掛けられた女たちが、大量のアイスを積んだトラックの前で真選組の黒服たちに囲まれているところだった。
「あーあ。やっぱりアイツら捕まったんだ」
「銀さん、この人ら知ってるんですか?」
戻ってきた新八から麦茶を受け取りながら「知ってるもなにも」と答える。さっき会ったばかりだ。
『彼らからアイスを受け取った、または購入した方は絶対に食べないでください。いずれもターミナルの保安検査を通過しておらず、健康被害が報告されています。アイスの成分は現在調査中です。病院では対応できませんので身体に異常をきたした場合はまず保健所に連絡を――』
緊迫感のある花野アナの声を聞きながら「は、はは……」と俺の口から乾いた笑いが出た。あんたさては、とジト目を寄こしてくる新八に「ハイ食べました」と白状する。
「銀ちゃんのバカヤロー、よそで出されたもん食べるなってワキが酸っぱくなるまで言ったでしょーがァァ!」
神楽に肩を掴まれて前後にガクガク揺さぶられる。うぷっと吐きそうになって思わず隣に助けを求めるも、姉弟揃ってヤレヤレと肩をすくめるばかりだった。
「ひとまず保健所に連絡入れてみますね」
立ち上がった新八が社長机に向かう。耳に受話器を当てた状態でしばらく応答を待っていたが「だめだ繋がらないや。回線がパンクしてるみたい」と表情を曇らせた。それだけ問い合わせが殺到しているのだろう。俺はアイス無料に釣られた市中の人だかりを思い出していた。あの場に居合わせた全員が被害者だとすれば、保健所はいまごろ相当な人数を捌かねばなるまい。(見た目は完全に市販のダッツだが)宇宙産未知の毒は前例がなく病院では対応できないと報道で言っていたから、救急車を呼ぶのも得策ではなさそうだった。
新八が保健所に電話をかけ続けるあいだも俺の身体は衰弱していく。万策尽きたように思われたその時、そうだわ、とお妙が声が上げた。
「さっきのテレビの中継映像だと、アイスを販売してた人たちは真選組に連行されたのよね。だったら屯所に拘留されてる犯人に直接聞けば銀さんを治す方法もわかるんじゃないかしら」
「たしかにそうアル! そうと決まれば早速ドSバカしばいて聞いてくるアル」
「用があるのは犯人だよ神楽ちゃん! 別に沖田さんしばく必要ないからね!」
定春に乗っていけばすぐだと言って新八と神楽はすぐさま外出の準備を整えた。お妙が行くと屯所にいる近藤に見つかってややこしい事態になりそうだから万事屋に留守番となった。
「姉上、銀さんのこと頼みましたよ」
「銀ちゃん気張れヨ~」
おー、と弱りきった声で返事する。重たい体を引きずって俺は寝室へと向かった。
お妙が敷いてくれた布団がちょうど目の前にあったので、これ幸いとバッタリ倒れ込んだ。布団にくるまって、ほう、と冷たい息を吐く。
外はあんなにも暑かったのに、俺の身体は凍えそうなほどに冷たくなっていた。
人生で何度か高熱を出したことがある。熱で体温が上昇したぶん、周囲と温度差が生じて酷い寒気を覚えたものだった。今回のケースなら低体温症寸前の俺は暑くてたまらなくなるはずだが、天人の作ったアイスは常識や道理から外れているのか、まるで身体が氷にでもなったみたいに寒くて寒くて仕方がなかった。
わずかに開いた寝室の窓から夏のぬるい外気が吹きつけて、窓辺にぶら下がる風鈴をちりんと鳴らした。凍える俺に風流を楽しむ余裕はない。むしろ涼しげな音がかえって寒さを増長するようで逆効果だった。
「オイ。こっから出てってもいいんだぞ」
「どうして?」
俺は枕に顔を埋めたまま「だって、ここ暑ィだろ」と布団の横に座るお妙に話しかけた。万事屋にクーラーなんて文明の利器は無い。あるのは壊れる寸前の微風しか吐かない扇風機一台だけで、あれは応接間に放置されている。寒気がする俺のために扇風機を稼働させず、窓は半分も閉められているから、熱気のこもる部屋の中でお妙は額に玉の汗を浮かべていた。着物の襟元をぱたぱた仰いで、ずいぶんと苦しそうにしているようだから、お前はあっちで扇風機に当たっていろと告げたつもりだった。
「でも、新ちゃんに頼まれましたから」
この女の持ち前の律儀さは長所であり短所でもあるんだろう。弟との約束を守りたい気持ちはわかるが、こいつはもっと自分を大事にするべきだ。室内でも熱中症になる例があると聞いたことがある。付きっきりで俺の面倒を見ていたばっかりに体調を崩してみろ、それこそ新八や神楽が黙っちゃいないだろうに。
「べつに頼まれたからってイヤイヤ銀さんの面倒見てるわけじゃないですよ」
どうにかしてこの女をこの部屋から出ていかせなければと思案していたところ、お妙が続けた。
「だってこんなに暑いのに、銀さんたら汗ひとつかいてないんだもの。顔も真っ青だし、死人みたいよ。そんなひとを一人だけ部屋に放置なんかできません。一緒に頑張りましょう、ねっ銀さん」
たとえ弟から頼まれなくとも己の意志で俺の隣にいたいのだと、微笑みをたたえながら強く告げられると、こっちも説得する気が失せた。かつて江戸にインフルエンザが蔓延した時も、誰もが風邪の時は心細くなるからと言ってお妙は俺と神楽を受け入れてくれた。病人の気持ちに寄り添うのが上手い女だった。どうしてそんなに上手いのか本人に聞かずとも志村姉弟の家事情からなんとなく察せられた。
ふだんの怪我の手当からなにまで妙の看病はとにかく手厚い。今だってお妙は横からペットボトルの水を差し出してきたり、体温を測り直してくれたり、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれている。可哀想な卵焼きの強要さえなければ、お妙はとても良い女だと思う。看病の時に包帯を巻いてくれる手がとてもやさしいことを、俺は知っている。過度な暴力と野蛮な脅し文句、そしてやっぱり可哀想な卵焼きの強要さえなければお妙は本当に良い女なのだ。大事なことなので二回言いました。
「このまま目を閉じて少しお休みになったらどうです」
「いや、喋ってたほうが気ィ紛れる」
寒気はひどくなる一方で、さながら気分は雪山の遭難者だ。寝たらおっ死ぬぞと俺の本能が告げていた。「あいつらが帰ってくるまで話し相手になってくんない」と頼めば、心得たとばかりにお妙が頷く。
「これで遠慮なく銀さんにお説教できますね」
なんで説教なんかされなきゃいけないんだ。新八や神楽の身を危険に晒した覚えもないのにと目で訴える。
「こうなったのは銀さんが変なもの食べたからでしょ。いい大人なんだからもっと警戒心を持ってください」
ごもっともである。なんにも言い返せずに、掛け布団を頭から被って逃げた。
「テレビで見ましたけど、アイスを配ってたのどれも可愛い女の子たちじゃない。どうせ鼻の下伸ばして油断してたんでしょ」
「違ェわ、俺はアイスの甘い匂いに釣られたんですぅ」
「なおさらダメじゃないの。なにを誇らしげに言ってんですか馬鹿なんですか」
「だってよ、目の前にダッツの匂いするアイス持って来られたんだぞ。口が勝手にさァ吸い寄せられるようにさァ食べちゃうじゃん、お前だってダッツ無料だって言われたら食べるだろ?」
「ダッツのパチモンなんか食べません」
「そうでもねーんだよなこれが。甘味マスターである俺が言うから間違いない。あれはパチモンなんかじゃねェ、まさにダッツの味だった」
掛け布団から顔を半分出した俺が説く。己の過失を正当化するつもりはないが、お前もダッツを愛する女ならわかってくれるだろう。
「ホラこうやって、すぐ目の前に、いい匂いのする大好物を突きつけられたら誰だって食べるだろ、な?」
アイスを試食させた女の動作を再現するように、俺は片手を布団から出して、人差し指をお妙の顔に近づけた。するとなにか異変に気づいたようにお妙は怪訝な顔をしたあと、すんすんと鼻を動かした。
お妙が口をちいさく開いて、なにか言うかと思えばそのまま俺の指をぱくっと咥えた。
「え。ちょ、待って、オイ!?」
なにしてんのォォォォ、と叫ぶほどの体力も残ってないから困った。咄嗟に指を引き抜こうとしたら、お妙の口が窄まって力強く指を吸われた。生温いものがぬるりと指の関節をくすぐって、俺の思考回路はショート寸前だ。
衝撃的すぎる光景に唖然としていれば、ちゅっと可愛らしいリップ音と共に唇を離したお妙が「チョコレートだわ」と言った。
「は?」
「銀さんの指から破亜限堕津のチョコレート味がします」
「はァァ?」
お妙が真剣な顔でアホなことを言い出したぞ。
いよいよ江戸の夏の暑さもヤバいことになってきたな。
思わず遠くを見つめてしまった俺を現実に呼び戻したのは、つけっぱなしのテレビだった。例のアイスの路上販売集団グループについて続報が入ったと花野アナの声が聞こえる。
ニュースによると逮捕された天人らが販売していたアイスには、彼らの星で採れる果物が原材料に使用されていた。その果実は地球人の体質に合わないために江戸の市民が食べるとほほ百パーセントの確率で身体になんらかの異変が生じるとわかっている。幸いにも現状報告されている症状はどれも軽いものばかりだという。体臭がアイスの風味に近くなるとか、チョコレートのように肌が茶色くなるとか。
ちなみにパッケージと味に関しては信じられないが本当に偶然に地球の高級アイスに似てしまったらしい。しかし訴えられたら絶対に裁判負けるだろうなと俺は寒気にうなされながら思う。とにかく、だ。
「身体がアイスになるってそれなんて地獄ですかァ」
アイスの摂取による異変は人によるが俺の場合は寒気だった。さぶい。とても寒い。軽症者ばかりだとテレビで言っていたのに、時間が経つにつれ俺の症状は軽くなるどころか、ますます寒気がひどくなり、全身から甘いフレーバーをまき散らしはじめた。俺の身体は本当にアイスみたいになりつつあるようだった。
「驚きました。これもアレルギー反応の一種なんですね。銀さんたら、全身から甘い匂いただ漏れにさせて、いよいよ糖尿病の末期症状かと思いましたよ」
「んなわけねーだろ……」
誰が糖尿末期病患者だバカヤローといつもの軽口に応戦する気力もない。
体温計はついに30度台を示した。冗談抜きに死にそうだ。カチカチと奥歯が鳴って全身が雪に埋まっているような感覚にぶるぶると震えていれば、見かねたお妙が毛布を何枚か掛けてくれた。
「新ちゃんたちが戻ってくるまでの辛抱ですから、甘い指でもしゃぶって耐えてください」
どんな励まし方だよ、と俺は鬱々とした顔になってお妙を見つめた。たしかに甘味は元気の源だけども。いくら指を舐めても甘いだけで実際に腹が膨れるものでもない。いい年した男が指ちゅぱちゅぱ吸ってる絵面がヤバいだろうが。
しかし指と言われて、はたと気づく。さっきお妙が口に含んだ俺の指がジンジンと熱を持っている。冷凍庫に長時間入れられたみたいに全身が凍りついて動きにくいのに、そこだけが熱い。というかそこだけ普通の体温を保っている。
俺はのろのろと首を動かして、ひとさし指に赤ん坊のように吸いついてみた。それを見ていたお妙が大きな声を上げた。
「や、やだっ、ちょっと銀さん! なにしてるんですか。それだと間接キ――」
「これさァ」
慌てた様子のお妙の言葉を遮って、すぐに指を口から取り出す。
「舐めたらそこだけ冷たくなくなるんだけどよ……どーいう原理?」
「あっそうよね、どうして思い当たらなかったのかしら。冷たくなって甘い匂いまでして、銀さんの身体がアイスみたいになっているんだから、舐めたら溶けるに決まってますもんね」
解決策が見つかって良かったですねと、お妙がニコリと笑った。イヤイヤよくないから。ちっともよくないだろ。むしろ状況は悪化してるよねこれ。
ためしに口端をぺろりと舐めてみる。いちごの味がする。指はチョコレート味だったから、部位ごとに違うらしい。いやそーいう小さな発見とか今はどうでもいーから!
口周りをペロペロしていれば氷が溶けるように顎が動かしやすくなった。舐めたら治るというお妙の提言は当たっていた。
えっ味が違うんですか、いちご味は美味しいですかとのんきに質問してくる女に、他人事だと思っていられるのも今のうちだぞと俺はお妙を巻き込みにかかる。
「たしかにこの調子で全身舐めたら治りそうだ。でもよ、テメーでテメーを舐めるのも限界があらァ。胸とか腹とか背中とか舌が届かねェだろ、どーすりゃいいの?」
「どうもこうも別の方法を探すしかないでしょうね」
「これしか方法が無かったらどーするよ。屯所に治療法を聞きに行ったあいつら、舐めたら治ると知ってどんな顔して戻ってくると思う? あいつらのことだから、俺のこと簡単に見放したりはしないぞ。いいのか、お前の大好きな弟や妹分が汚されちまって」
「は? 新ちゃんや神楽ちゃんにふしだらな真似させるつもりですか?」
そんなの許しませんよ殺しますよと地の底から這うような声を出され、命の危険を覚えた俺は「じ、冗談だろーが!」とすぐさま否定する。俺だって青少年保護育成条例に違反したくない。PTAから大量の苦情が来そうだ。今後三人で万事屋やっていく時に気まずいことにもならないよう、この件で絶対にあいつらの世話にはなるわけにはいかない。
「じゃあええと、ホラ、猿飛さんにお願いしたらどうです」
「は、ぜってー嫌だ。どさまぎで変なブレイにもちこまれそう」
恐ろしいことを言うんじゃねえ! と俺は咄嗟に屋根裏を見つめる。このやり取りを聞いて居たら、くだんの女忍者なら喜び勇んで現れそうなものだが幸いなことに今日は留守らしい。事態が悪化せずに済んで胸を撫で下ろしていると「ごねてる場合ですか」とお妙に呆れられた。それは俺の台詞だ。お前だってそろそろ目を逸らしている現実に向き合うべきじゃないのか。
「俺のカラダからダッツの味がする。で、お前はダッツが三度の飯より大好きだ。ここから導き出される結論はひとつだろ」
「そうですね。銀さんが一人凍死するしかありませんね」
「つれねえこと言うなよホラ、人助けだと思ってさァここは一つさァ……」
「私が銀さんを舐めて治せって言うんですか?」
改めて言葉にするとドン引き案件だなと思いながら、つまりそういうことだと俺は頷く。
「ありえない。嫁入り前の娘になにやらそうとしてるのよ。ていうか、やっぱり絵面がだめでしょ。それこそ吉原にでも行くとか……」
あれやこれやと打開策を挙げようとするお妙は往生際が悪い。凍えた身体はもうここから一歩も動けそうにない。俺の命は風前の灯だ。
目の前で困っている人間に手を差し伸べずにはいられない、不器用な性分なのはお互い様であることを、お妙との長い付き合いのなかで俺は重々承知していた。だからここは一つ最後の手を使って、お妙には諦めてもらうしかない。
「とにかく時間が無ェ。なにも全身舐めろって言ってるワケじゃねーんだ。動けるようになれば俺も別の解決策を探るから。マジで死にそうなんだ。お妙、俺のこと助けてくんない」
頼む、と弱った声を出した俺はよっぽどヤバイ顔色をしていたんだろう。あれほど嫌だ嫌だと抵抗していたお妙が目を見張って言葉を失うほどだ。
やがて「わかりました」と返事があって、着物の袂を腕まくりしながらお妙が言う。
「こんなこと、新ちゃんや神楽ちゃんにやらせるわけいきませんから」
だから私が身代わりになるしかないのよね、と必死に自分に言い聞かせているお妙を見ていたら、なんだか可哀想そうでならなかった。これだと新八や神楽を人質に、俺がお妙に変なプレイを強いている図みてーじゃねーか。みたいじゃなくて実際そうなのだから最悪だった。だがほかに道はない。
俺はのろのろと上体を起こした。かじかむ指を舐めて、ボタンを外して寝間着の前を広げる。上着を完全に取り去ればいっそう寒気に襲われて、くしゅんとくしゃみが出た。いつも見ているだろうに(怪しい意味ではなく!)半裸の俺に戸惑った様子でいるお妙に、今さら? と俺は首を傾げる。
「いい加減に覚悟決めろ、それでも男か」
「誰が男じゃコラ」
「ぐえっ」
鳩尾をえぐる鋭い一撃を放ったあと、お妙は布団の上にあぐらをかく俺の前に正座した。それから、なかなか動こうとしないお妙に焦れて、俺はまるで吸血待ちのように首を片側に寄せながら「さっさとしてくんない」と急かしてやった。
「それが人にものを頼む態度ですか」
「ハイハイ、神様仏様、お妙様ァ! マジでお願いだから助けてくださァい! おめーの大好きなダッツの味、好きなだけ舐めさせてやるから!」
「ああ、もうっ、銀さんなんかに誠意とか期待した私が馬鹿でした」
やっぱりもう黙っててください、腹立つんで、と言ってお妙は吹っ切れた様子でにじり近寄ってきた。物を頼む態度を見せろと言ったかと思えば、今度は黙ってろときた。なんなんだお前は。お妙もなかなかにこの状況で冷静さを失っているらしかった。
さて、いまからこの部屋で起こるあらゆる事象は他言無用だ。
扇風機のない蒸し暑い寝室は四十度を越しているはずだ。俺は寒さで思考が凍結し、お妙は暑さで思考が溶けていた。お互い正気じゃなかった。そういうことにさせてほしい。そうじゃなきゃ、こんな状況ありえないだろう。
「仕方ないから……助けてあげます。末代まで私に感謝してくださいね、銀さん」
高飛車なセリフに反して声色に余裕がない。お妙の緊張がこちらにも伝わってくるようだった。
目の前で開いた女の口から、遠慮がちに覗く真っ赤な舌の先。それがいまからどこに触れるのか想像しただけで俺はゴクンと唾を鳴らした。
後先なんにも考えずに首筋を差し出してみたが、いきなり難易度が高すぎたかもしれない。お妙ではない、俺にとってだ。
正面からが一番舐めやすそうだと判断したのは軽率だった。顔同士の距離が急にぐっと近くなり、黙っていればメチャクチャ美人な女の顔がすぐそばにあることにドキリとさせられた。無難に背中とか腕とか、普段傷の手当してもらうような気軽さで触れやすい箇所にすべきだったと後悔した。
さらに追い討ちのように次なる試練が俺を襲う。剥き出しの俺の首筋に、つ、とお妙が舌を這わせてきたのだ。寒気とは違う、ぞくりとしたものが俺の背筋を駆け抜けた。
「ここ、とか。ひとまず命に関わりそうな、太い血管があるところを舐めていきますね」
「……あーウン、頼んだ」
ふたたび、お妙の舌が触れる。
頸動脈のぼこっとしたあたりを、ちろちろと往復する生暖かいそれがくすぐったい。女の髪が顎を掠めてそこからいい匂いがしてどーしよう。これはアレだから、生命の危機に瀕して身体が超反応しているだけだからと内心で誰に聞こえるでもない言い訳をする。ピンク色に染まる思考を散らすため、頭をぶんぶん振れば、舐めにくいから動くんじゃないとお叱りを受けてしまう。
全身氷漬け状態で、お妙に舐められたところだけがやたらに熱くなる。それは俺の身体がアイスになっているからで、仕方のないことだ。
「あの、無言だとやりづらいので、なにか喋ってください」
「いいの? 喋ったら変な声出そうなんだけど」
「気色悪い声出したら殺しますよ」
「どうしろと!」
俺が文句言えば、諦めたように舐める作業に戻ったお妙の舌がちょうど俺の喉の薄い皮膚をぺろりと舐めたせいで、出すなと言われたそばから変な声が出そうになった。咄嗟に、んんんっ、と咳をして喉の調子が悪いフリで乗りきる。
「勘違いしないでくださいね」
しばらくすると唐突に妙が言った。俺の鎖骨に口をつけたまま喋るせいで、はふはふ吐息が当たる。
「誰が、なにを勘違いするなって?」
「銀さんが、いまのこの状況をです。言っときますけど、これは治療のためですから」
俺の肌にやわらかい唇をくっつけたまま、お妙は頑なにこちらを見ようともしない。
この期に及んでなにを言うかと思えばこの女、治療だそうだ。へー、そーなんだ。治療という名目さえあれば好きでもない男の首筋に吸いついちゃうんですかお前は、と内心でちょっと心配になる。お前、わりと貞操観念しっかりしている女じゃないっけ。そーいうの全部ひっくるめて、自分を尻軽な女だと勘違いするなよとお妙は伝えたいのかもしれない。もしくは、首筋を舐めてもらったぐらいで調子に乗るなよ、治療なんだから変な気を起こすなと俺に釘を刺したいのか。両方か、どちらでもないのか。首筋や鎖骨のちかくをぺろぺろと撫でる舌が、なまぬるいやら柔らかいやらで、すっかり思考がぐずぐずになっている俺には、もう何もわからなかった。
舐める位置を変えようと、お妙が一旦身体を離した。相手の顔を見てハッとした俺は、お妙の肩をぐいっと押しのけて、これ以上こちらに近づかないよう促した。
「もう、いい」
「え? でもまだ……」
「さっきからずっと冷たいまんまだ。お前もわかってんだろ、これ以上舐めても変わんねェよ。範囲が広すぎるみてーだ」
せっかく頑張ってくれているお妙には悪いが、芯まで凍えた俺の身体はなかなか温度を上げない。身体の中心部、心臓に近いところにいくほど舐めても舐めても冷たいのが溶けにくいらしい。
「大丈夫だ。お前のおかげでだいぶラクになったから、あんがとな」
凍てつく瞼を押し上げて俺は礼を言った。ほんの気休めに過ぎなかったが、胸のあたりの強張りが取れて呼吸がしやすくなった。それだけでも十分な成果だ。
それじゃあ、お互いのためにも、今日のことは秘密にするように(特に新八には)と俺からお妙に口留めの約束を取り付けようとした時だった。
「いいえ、まだです」
まだ続けると言ってきかないお妙が首を横に振る。いったい何がお前を死に急がせるんだと俺は問いたい。
「いいって、だってホラお前、舌と唇の血色やべーことになってんぞ」
さっきはそれに気づいて思わずお妙を押し退けたのだ。俺のアイス化の症状は深刻で、ついに匂いだけでなく冷気まで放つようになったせいで、俺の肌にくっつけていたお妙の唇を凍りつかせてしまったようだ。唇だけじゃない。さっきまで部屋の暑さに火照っていたお妙の頬は、いまや不健康にも青白くなっている。
「大丈夫よ。この部屋がすごく暑いからちょうどいいくらいです」
「バカ。無理すんなって」
俺の制止も聞かないで(心臓のちかくを温めようとしてくれているのだろう)頭を下げたお妙が俺の胸板にちゅっとキスした。本人に言わせるとこれはキスじゃなくて治療だそうだが。
お妙が触れた場所は温かくなるどころか、お妙からみるみるうち熱を吸い取ってしまう。己の身体なのに恐ろしくなる。近づくなと言っても聞かないお妙に、俺はなんとか説得を試みた。
まだ続けてくれるならありがたいけれど、せめてちょっと休んだらどうだと俺が言っても、意地を張るようにお妙は首を振って、俺の肌に熱を与えようと必死に舌を動かしている。
しなないで。
ちいさな祈りと共に青白い唇が降ってくる。何度もだ。数えきれないくらいに。
丹念に施された治療、もとい、お妙から贈られてくる口づけの熱は、やがて俺の心臓へと届いた。冷たい皮膚を溶かしながら、トクトクと心臓に血がめぐってゆくのがわかる。それだけじゃない、健気な女の姿に俺はぐっと胸をつかまれる思いだった。
「ねェ銀さん大変です」
「な、なに。なんだどーした」
お妙の甲斐甲斐しいさまに、たまらない気持ちになっていると、急に名前を呼ばれて内心とても焦った。なんでもないふうを装って返事すると、唾液でべとべとになった俺の胸板を見つめながらお妙が神妙な面持ちで言った。
「右と左で味が違います」
「マジでか」
「マジですよ」
新発見である。おそらくこの世で一番役に立たない新発見だと言えよう。
手はチョコレートで、口周りはイチゴだと知っていたが、まさか胸の左右まで別々の味つけがされているとは思うまい。全身アイス屋台みたいになってしまって、俺のからだは一体どうなっちまったんだろう。
「ちなみに、それぞれなんの味かわかる?」
「そっちがキャラメルクッキーで、こっちはレーズンバターかしら」
「へー。なんでだろ。乳首関係してんのかな」
「絶対に関係ないと思いますけど……」
お妙がボソボソなにか言っているのが見えるが、急に音が聞こえなくなってしまい俺はぞっとする。霜の降りた聴覚はとうとうお妙の声すら拾わなくなった。舐めるのをやめたせいか、また身体が冷え込んできた。
お妙から何度も心臓に接吻された時に感じた、熱い血潮の流れも、いまはもうほとんど感じない。
ああ、寒い。
それと強い眠気が押し寄せてくる。とてつもなく眠くて、だんだんと呼吸が浅くなる。
そんな凍死寸前の俺をつなぎとめたのは、甘味だった。己のからだから発せられる匂いは自覚しづらいのか、嗅ぎ取ることができたのは、たったひとつの、おれのだいすきな、あまいにおいだった。
目の前にいる女の唇から、甘ったるいそれがぷんと香る。俺の首筋や心臓付近をさんざん舐めたせいで、皮膚にまで染みついたアイスのフレーバーがそこから匂い立っていた。
天人の女からアイスを試食させられた時とおなじ光景だと思った。目の前に用意された大好物にひとが吸い寄せられるの世の摂理だし、避けることのできない自然事象であり、つまりは不可抗力なのだ。
はじめに覚えたのは、むちりと潰れた唇の柔らかさだった。
ぺろりと舌で舐めとった唇の表面から漂う、シロップのような甘さが鼻孔を突き抜けていった。
「うっわ、ほんとにレーズンバターの味する」
事前に聞いていたとおり、女の唇からはかの有名なアイスのフレーバーの味がした。相手の息を呑む音が聞こえる。匂いもする。凍りつくような寒さが相手の唇の熱に溶かされたおかげか、俺は五感を取り戻していた。
甘ぇ、と顔を離して俺が告げた味の感想に刮目し、相手はただただ驚いているようだった。
「……ぎ、ぎんさん」
お妙がギクシャクと俺の名前を呼ぶ。潤んだ瞳。ぶわわっと紅潮した頬。いやいや、なんつう反応を寄こしやがるのだ、この女。さっきまで平気で好き勝手に男のからだを舐め回していたとは思えない、こんな純情可憐な反応をされてしまえば、殴られる以外の対応を知らない俺のほうこそ困り果てるというものだ。なんでこんなことしたんだと聞かれたらなんと答えたらいい。正直に言わせてもらうなら魔が差したというほかない。しかし魔といっても、実際はそんな単純なもんじゃない。これまで積もり積もった、さんっざん人を煽っておいて、この女一体どうしてくれようかと呻きたくなる感情が、このたびドッと押し寄せて最大瞬間風速を叩き出した結果の事案みたいなもんだ。だがそれをうまく説明できる自信が無くて、あーとかえーとか呻きを漏らして俺がなにも言えずにいると、お妙の瞳の潤みがどんどん増していく気がする。
泣かれる前に、なにか言わなくては。
「悪かった」
開口一番の謝罪は悪手でしかないだろう。謝るくらいなら最初からするなと、神経を逆撫でにされたお妙から強烈な一打をお見舞いされること間違いなしだと思った。
実際、「眠くて倒れ込んだ先にお前の唇があって」とか言い逃れする理由の一つや二つ思い浮かばなくもなかった。けれども己の唇を両手で大事そうに包むお妙を目の前にしたら、なんだか取りつくろう気になれなかったのである。
きたるべき衝撃に備えてギュッと咄嗟に目をつむる。が、なかなか衝撃は来ない。片目をそうっと上げて、真っ赤な顔していまだ震えているお妙にむかって「オネーサン?」と俺はおそるおそる聞く。
「なんです」
「えーと、怒ってる?」
「あたりまえです」
「悪かったって……でもお前、べつに初めてってワケでもない、よな?」
「男のひととするのは、はじめて、です」
事実を噛み締めるように言われてしまって、それはそれは結構なものを、と俺は恐縮する。
「弁解はありますか」
さながら死刑執行人みたいなことをお妙が言った。さっき問答無用で殴られなかったのはこの質問をするためだったのかもしれない。
「弁解っつーか、そもそもな、こーいうの良くないと思うよ俺は。たとえ人命が掛かっていたとしてもだ。年頃の娘がさァ男のカラダ舐めるとかさァ天国の父上が見たら泣くぜ?」
「銀さんが頼んできたくせになに言ってんですか」
それはそうなんだけも。矛盾した発言なのは承知している。ひとを助けるために時に己の身を投げ打つお妙の性分を、今回うまいこと利用したような俺がなにを偉そうに言うのか、それでも自身の所業を棚に上げても一言物申したかった。お妙の生き様は一本の芯があって、俺はそれがすごく好ましいと思う一方で、時々こんなふうにどうしようもなく心配になる。たとえば、俺みたいに全身アイス化して死にそうな男が道端に転がっていたらこの女は今みたくペロペロしちゃうんだろうか、と。
「銀さんに心配されなくても、誰に頼まれたって普通はこんなことしませんよ。父上を泣かせたくはありませんから。私、身持ちは固いほうなんです……知ってました?」
ああ知っているとも、俺は深く頷いた。じゃあなんで俺の頼みは聞き入れたくれたんだと、まっとうな疑問を抱いているとお妙は続けた。
「ひとのトラウマを抉って楽しいですか」
「なにそれ」
「さっき、銀さんのこと死人みたいだって、言ったでしょう。銀さんのおでこも、くちびるでさわった喉も肩も胸もぜんぶ、びっくりするほど冷たいのよ。それが……いやなこと思い出して、なんとかして助けてあげなきゃって思ったの」
ためらいがちに言ったあと、いわゆる「いやなこと」でも頭に過ぎったのか、お妙の表情にくらい影が落ちる。
俺が死にそうなところをお妙に助けてもらったのは今日が初めてではない。ヤンチャして、血を流し過ぎたせいで意識朦朧と死の淵を彷徨う俺にむかって、新ちゃんたちを泣かせたら承知しないんだからと呪詛を吐く女がいた。お前、もうちょっと可愛げのある言葉は言えねーのかと俺が目をあけた時、お妙は必死の形相で、その瞳に涙をたたえていた。ちょうど、いまとおんなじような顔だ。
女のいう、トラウマとやらを植えつけた張本人たる自覚のある俺は、とんでもない責任を感じるままに己の腕を伸ばした。強張った女の肩に触れる。ビクリと全身を震わせたが、大丈夫だと、俺はまだ生きているぞと言い聞かせるように冷たい指先に力をこめてやれば、ふう、とお妙は安堵の息をついた。
「お妙」
「やだ、いけませんね私ったら。馬鹿ねェ。G並みにしぶとい生命力の銀さんがおっ死ぬわけないのに」
「誰がG並みだ。……いや、いーよ。だって馬鹿は俺も同じだから」
「え?」
「お前が簡単にくたばる女じゃないってこと、俺ァ知ってる。でも、俺のせいでお前の顔がみるみる血色悪くなっていくのが見てらんなくて、俺がお前から熱ぜんぶ奪っちまったらどーしよと思ったら勝手に身体が動いてた」
凍える意識の中でお妙から漂う甘い匂いに誘われたのは本当だ。だが、理性を無くすほどではなかった。まさに女の唇を奪うその瞬間、俺の胸を衝いたのは紛れもない、この女に対する心からの感謝の念だった。お妙が必死に俺のこと助けようとしてくれたぶん、俺もなにか返さなくてはと思ったのだ。
「で、どーよ。舐めたらマシになるそーだけど?」
「どうって言われても……そんなの、わ、わかりません。鏡を見ないと。唇の色なんて、自分じゃ見えませんし」
「うーんまだちょっと青いかもな」
女の唇の変化を観察するために顔を近づけて、ちょっと傾ける。それだけでなにか察したのか、お妙が慌ててきゅっと目をつぶるので、あっいけるなと思うのと、俺たちの唇同士がくっついたのはほぼ同時だった。
上昇しまくった寝室の気温が、お妙の理性をいっぺんたらず溶かしてしまったのか。女の後頭部に手を回しても、甘い匂いのする表面を舌で舐めても、さかいめから口内に舌を侵入させても、なにをしても殴られなかった。いっそのことどこまでやったら殴られるか挑戦してみたくなっていると、トンと裸の胸を押されて、流石にもう離れろとお達しがきた。相手は鼻呼吸の仕方がわからなかったのか、ずっと息を止めていたらしいお妙が肩を上下させながら「不思議ですね」とちいさく言った。
「なにが?」
「全身つめたいのに、お互いに舌は熱いんですね」
「……そりゃ、そーだろ」
現状舐めて溶かすしか解決方法がないのに舌まで凍ったらまずいだろうと持論を述べると、お妙が興味深げに目をしばたいて「たしかにそーですね」と納得した。舌が熱いだなんて純粋な感想なつもりで言っているんなら、どれだけ無自覚に煽れば気が済むんだろうと俺の内心はイラつきとムラつきが半々である。なーにが、たしかにそーですね、だ。ひとが言ったことなんでも受け入れやがって。熱いのはなにも舌だけではないってこと、実地で教えてやろーかと下世話な思いがわいてくる。
だが、その前にひとつだけ忠告せねばなるまい。
「勘違いすんなよ」
「え?」
「さっき口と口くっつけたのも、いまのやつも、俺のせいでお前の唇が青くなっちまったから、お前が風邪引かねェよーに銀さんが気ィ遣っただけだから。いわばこれはアレだ……治療?」
お妙は唖然とした顔で俺を見つめてくる。どうだ。言われた側は腹立つだろう。治療だなんてふざけたこと、お前もさっき俺と同じこと言ったんだぜと笑ってやりたかった。
わかりやすくムッとしたお妙は、さっきよりずいぶんと血色のいい唇をぱくりと開く。
「なら休憩もおわったことですから、『治療』の続き、しますか」
負けず嫌いなのはお互い様だった。
お妙のいうところの治療が再開すると、当然またお妙の唇が青くなる。そうなると今度は俺の出番だ。お妙の唇の色が戻るまで、口を舐めて吸って味わった。
勘違いしないでくださいね。勘違いするなよ。そうやって、お互いに治療だと言ってしまえばなんでも許されると思っているのが滑稽だった。
正面だけじゃなくて背中や腰も舐めてもらった。気がつけばパンツ一丁で、けれどももう寒さはほとんど感じなかった。行為をくり返しているうち、血潮まで凍えてしまいそうな寒さがまるで嘘みたいに、ばっくばっくと俺の心臓は元気に脈を打つまでになった。
「あー、かなりラクになったから、もういいぜ」
「まだちょっと」
「まだってお前……もーじゅうぶん舐めただろ、もうよくない? そろそろやめとかない?」
「だめです……まだ冷たいから」
離れてほしがる俺と、いいえまだですと引き留めにかかるお妙の手が交差する。
俺が一番最初にタイムをかけたのはお妙の唇が真っ青になったのを見たせいだった。しかし今度は違う。今回はマジもんのストップ宣言だ。赤ゲージギリギリの理性で俺がロープ掴んでるのに、お妙はいつまでもリング外に逃がしてくれない。
俺が限界近くなっていることも知らないで、さりさりとお妙の舌が俺の上腕を這う。むき出しの肩を舐め、傷跡をなぞって線を描くみたいに背中や腹をぺろぺろと濡らした。
いまにも暴発しそうな桃色の欲望を抱える俺は、お妙の両肩を掴んで剥がそうとするけれども、相手は意地になって強く肌に吸いついて離れようとしない。お前はどこの吸着生物ですか。いいのかそれで、あとで自分の行動を客観的に思い返してみたとき絶対に後悔するぞ。
意外な積極性に慄いていると、ようやくお妙は満足したのか、ちゅうちゅう吸い付いていた俺の上腕から顔を離した。
「気ィ済んだ?」
「……は、い」
お妙は恥じ入ったように顔を伏せて、唇についた唾液をゴシゴシ手の甲で拭う。夢中になっていた言い訳を述べようと「実は……」とお妙が明かす。
「銀さんの至る所からダッツの味がしてるんですけど、バニラ味だけ見つからないんです」
「諦めワリーなと思ったら、好きなフレーバー探してたのかよ」
俺は座ったまま布団の上で転げそうになった。どんな理由だ。ふざけんじゃねーぞ俺が理性と戦ってるあいだお前だけ余裕ですかバカヤローいますぐその余裕無くしてやろうかああん? と文句言おうとして、ふと思いとどまる。
お妙の言葉に俺はひとつだけ思い当たることがあった。
主に下半身の脚から漂う匂いは抹茶だ。両手はチョコレートで、右胸はキャラメルクッキー味。左胸はレーズンバター。顔はストロベリー味。さらにお妙によれば、腹はクッキークリーム味で、背中と上腕はマカデミアナッツらしい。それだけ舐めて、ダッツの代表味ことバニラが見つからないというのはたしかにおかしい。
「…………まだ一か所舐めてないところあるけど」
「えっ、どこですか」
全身舐め尽くした気でいたのか、俺の言葉が予想だにしていなかったようにお妙が驚愕している。女の瞳がキラキラと期待を抱えているのを見て、すごく言い出しづらいなと思う。だが俺が言い出さなくても、そのうち気づかれるのも時間の問題だ。だって、さっきから全身舐められまくって、ついに目をそらせないところまで来てしまったから。
ここなんだけど、と言いながら俺が指で示した。
お妙の目が点になって、俺たちのあいだに沈黙がおりる。
ちりんと窓辺で風鈴の音が鳴った。
はやく、はやくしないと! 銀さんが死んじゃう!
僕らが万事屋を出る前に最後に見た銀さんの顔はびっくりするほど青白くて、いまにも死んでしまいそうだった。手遅れになったらどうしようと、とっくに治したはずの泣き虫がふとこんな時に顔を出す。
「新八ィ、弱気になってる場合じゃないネ。絶対に銀ちゃん助けるアル」
へこたれる背中をバンッと叩かれる。夜兎の神楽ちゃんの張り手は正直とっても痛くて、着物の下は絶対に跡が残っているに違いなかったけれど、おかげで前を向くことができた。うんそうだね。銀さんの命は僕たちが預かっているんだ。
屯所までたどり着いた僕らは、拘留中だった件の天人と面会を無事に終えた。とにかく時間がないので、万事屋までの道程を定春に全速力で駆けてもらう。この事実を一刻も早く伝えなくては。
ただいま戻りました! と勢いよく万事屋の玄関扉を開けば、なにやら寝室のほうからガタガタと物音が聞こえた気がする。そんなの構ってる暇なんてないから、僕たちは廊下と応接間を抜けて、寝室の襖をスパーンと開いた。
「銀ちゃん! アネゴ! わかったアル! 報告されてる症状にアイス化ってのがあって、銀ちゃんの症状きっとこれヨ!」
「お風呂に入るとか温かいタオルで身体を拭くと治るみたいですから今すぐ――って、どうしたんですかアンタたち」
ぜえ、ぜえ、ぜえ。まるで乱闘後のように銀さんと姉上が髪を乱して睨み合っていた。二人とも布団の上に尻もちをついたような体勢で、お互いに「お前が悪いんだ」と言いたげな顔で相手のことを見つめている。そんな二人の様子から、僕らがくる直前に揉め事かなにかあったことが窺えた。どうせまた銀さんが余計なこと言って姉上のこと怒らせたりしたんだろう。銀さんにまだそんな元気が残っていることにホッとする。
なぜだか表情が固い銀さんがギギギと僕らに向き直り(怒った姉上に引きちぎられでもしたんだろうか)乱れまくった寝間着姿のまま居住まいを正した。
「よ、よう新八、早かったな」
「そりゃ急ぎますよ。銀さんめちゃくちゃ顔色悪そうだったんで、早く助けないといけないと思って僕ら頑張ったんですから」
「助かるぜ。それで……なんだっけ、さっきお前が言ってた話よく聞こえなかったんだけど」
「は? なんで聞いてないんですか」
「ごめんね新ちゃん、私も聞こえなかったの。もう一回言ってくれる?」
「姉上も? 仕方ないなあ、ですからね……」
お風呂に入るとかすればアイス化は治るんですよと二度目の説明をする。
そういやなんであんたらふたりとも息荒げてたんですか喧嘩ですかと聞こうとした時、姉上と銀さんがほぼ同時に大声を出した。
「「風呂かよッッッ!!!!!!!!!」」
「うわ、うるさっ、なにこのひとたち、うるさっ」
思わず目をつむる。耳キーンとなったじゃないか。一体なんなんだと苦情を言うために目を開くともう二人はそこにいなかった。
「なんでその可能性を忘れてたのかしら」
「そーだよね、こんなエロ同人みたいな解決策があるわけないよね」
ぶつぶつ文句言いながらバタバタと二人が家中を歩き回る。銀さんはバスタオルだの自分で準備して、姉上はお湯を沸かしに風呂場に行った。
「あれ銀さん、顔色良くなってません?」
タオルを抱えた銀さんを捕まえて、気になった事を聞けばギクッと銀さんはみるからに怪しい反応を寄こした。
「僕らが出かける前は自分で歩くのも難しそうにしてたのに、なんで元気になってんですか、その様子だとまだお風呂に入ってないんですよね?」
「うるせー! 汗かいたら治った!」
汗もなにも、あんなに寒そうにしてたら汗かかないんじゃない?
風呂場のスイッチを入れてきた姉上に、なにか知っているかと聞いても「知らない」の一点張りだ。べつにいいけど、こっちを見ようとしないのはなんでだろう。
ハテナマークを浮かべたまま寝室で首をかしげる僕の肩に、ポンと手が置かれた。振り返ると神楽ちゃんがヤレヤレ首を振っている。
「これだから童貞は……」
「待って、なんでこのタイミングで童貞貶したの!?」
大人には色々あるアルと遠い目をした神楽ちゃんのおかげで、謎はさらに深まるばかりだった。僕にはわからないことだらけだ。でも、銀さんが元気になってよかったなと思う。
姉上に呼ばれて僕が寝室を出る時、部屋からはほんのりバニラの匂いがしていた。
#原作
アイスノアジスル '20210711
2021年夏に開催された銀妙Webオンリー「天の川の下で待ち逢わせ」で公開しようとして、当日正気に戻って公開をやめたお話です。なぜやめたのかは読んだらわかると思います。