初婚練夜
やだ。うそ。ほんとうに?うろたえる声が聞こえた。思わず万年筆を動かす手を止めて、そちらを見る。
テーブルを挟んだ向こう側、銀時の手元を覗き込んだ妙が、ウソよとか、信じられないとか、顔をしかめてぼやいている。とんでもない誤字でも見つけたんだろうかと思って、銀時は記入途中の書面を見つめた。
これ、と言って妙は紙のある一点を指さした。銀時の生年月日の欄だった。
「銀さんアナタ、二十九歳だったんですか」
「アレ、言ってないっけ?」
「初耳ですけど……あの、ちょっと待ってください」
声が震えている。ここまで動揺を隠せていない妙の姿は珍しかった。事実を受け止める時間をくださいとばかりに、難しい顔した妙が両手でTの字をつくってみせるので、試合じゃねーんだからと銀時は苦笑いした。
そのまま空欄の続きを埋めようとすれば、ガシッと妙の手が銀時の手首を掴んだ。
「待てって言ったのが聞こえなかったのかコラ」
「イッ、いだだだだァ! 手首折れるぅぅ! わーったよ待つから手ェ離して、ほら見ろ、俺の手首がちょっとコレ、ヤバい色になってるからァ!」
万年筆をテーブルに転がし、お前の許可無くもう書きません絶対に、と宣言した。よろしい、と頷いて妙が手を離したあとも、銀時の手首にはジンと痺れが残った。
書類をたった一枚書くだけなのに、いまのやり取りでどっと疲れた気がして、銀時は両腕を広げてソファの背にぐったりともたれかる。万事屋の長椅子より何倍も衝撃吸収性に優れたそれは体重をいくら預けても軋みひとつ上げない。
ファミレスの窓際席のテーブルの上にお冷が二つ並んでいる。その一つを妙が手に取り、ぐいっと呷った。あらまァいい飲みっぷりで。喉乾いてたんだなと見守っていたら、タァンッ! とグラスの底をテーブルに叩きつける音が響き渡った。
「ふざけんじゃないわよ」
怒気もあらわに妙が呟くので、銀時は馬鹿正直に困惑顔を晒した。それが癪に障ったらしくて、まなじりを吊り上げた妙が「知らないことばかりだわ」と吐き捨てる。
まさに一触即発、その場を今にも説教が始まりそうなピリピリした空気が包む。だが、すぐに霧散した。先ほど銀時が上げた悲鳴がずいぶんと大きくて、周囲の視線を集めているのに気付いた妙が逃げ出すようにドリンクバーに行ってしまったからだ。
窓際席に取り残された銀時を見て、カップル間のいざこざだと判断されたのか、野次馬根性丸出しの客たちは興味を無くしたように各々の世界に戻っていった。
時間帯が深夜なだけあって店内の客はまばらだ。家族連れや学校帰りの学生でごった返す昼間とは明らかに違う様相をしていた。夜闇に紛れるように来店した人々のまとう雰囲気は一様に薄暗くて店内だけが白々と明るい。
ふと目をやった窓の外は、不思議なことに本来あるべき国道沿いの景色ごと夜に呑まれている。銀時たちの滞在しているファミレスの店舗だけが世界から隔絶されたように光を放ち、あとは暗闇が広がっていた。たとえるなら世界時間が停止して、世の中の決まりごとから今だけ道を外れることを許されたような場所。後頭部から侵食してくる眠気も関係して、すべての感覚が曖昧に感じられた。
それだから、目の前に広げた紙もどこか現実味なく銀時の目に映るのだろうか。
妻になる人の欄がすでに埋まっているまっしろな紙を、銀時はじいっと見つめる。
妙が戻ってくるまでのあいだ、ずっとそうしていた。
緑茶といちごミルク、それぞれ注いだ耐熱用カップを両手に妙がドリンクバーから戻ったきた。他人の飲み物を気遣う余裕があるなら怒りは静まったかに見えたが、そんなはずない。銀時が礼を言ってカップを受け取る時も、相変わらず妙の眼差しは鋭かった。
「銀さん」
ずずっと緑茶を啜った口で銀時を呼ぶ。音量はだいぶ絞られていた。客の視線を集めてはいけないと気をつけているらしかった。
「年齢なんて、そんな大事なこと、どうして今まで内緒にしてきたんです」
「聞かれなかったから……ッてェ!」
テーブルの下に隠された脛を無言で蹴られた。おのれよくも人体の急所を、と呻く銀時を見て妙が溜息をついている。反省の色が無い男だと呆れているのかもしれない。以前にも誕生日を聞かれて、もう過ぎてるし祝う必要もねーよと銀時が答えたら、これとまったく同じ反応をされたから。今もあの時も蹴られた脛はすごく痛かった。
銀時にとっては、年齢も誕生日もあってないようなものだ。かぶき町で家を借りて商売するのに必要だったから用意したに過ぎない。とりわけ年齢なんかは同門の男たちの年齢に合わせてみたものの、実際は桂たちより年下だったり、はたまた年上だったりすんのかなとか詮無いことを考える。
出生すらあやふやな男なので、取ってつけたような誕生日や年齢という属性は他人事のように感じる。きっとなにひとつ真実でないから、いまいち大事にできないのかもしれない。新八や神楽、妙の誕生日は祝うのに自分のだけぞんざいに扱うのはどういう了見だと周囲から怒られた時、咄嗟に思い浮かんだ言い訳がそれだった。
指折り数えていた妙が、九つも違うのね、とちいさく呟いた。
「お前、俺のこといくつだと思ってたの?」
「内緒にしてた人には教えてあげません」
頬を膨らませて妙がフイとそっぽを向いた。九つも違うことに驚いていた様子だったから、かなり若く見られていたんだろう。見た目の銀髪のせいもかもしれないし、大のおとなとは思えないような子どもじみた言動で妙を怒らせたことも身に覚えがあった。
若く見られていたことが嬉しかったかと言われると微妙だ。むしろ不安要素になる気がしている。口の中がひどく乾燥して、いちごミルクを啜って舌を湿らせた。
「こわい?」
急に発覚した年の差にお前は怖気づいたかと、年長者の余裕顔を貼りつけて相手の反応を見る。怖がっているのはどっちだよと内心で自嘲しながら。
銀時の問いに、妙は深く考え込んでから口を開いた。
「それなら銀さんは、つぎの十月で三十になっちゃうんですね」
「そういうお前は二十一な」
「九つも年上の人と一緒になるなんて、想像したこともなかった」
妙の言葉はどこか思いつめた響きを含んでいる気がした。女は後悔しているのだろうか。ならば、目の前にある書きかけの紙は今すぐ破って丸めてしまおう。悲しみと怒りの両方がないまぜになった、発火寸前の激情が銀時の胸を流れ落ちていった。
銀時の指が紙の端にかかるより先に、そうはさせないとばかりに妙が続けた。
「べつに怖いなんて思っていません。ただ、私はいまこの瞬間まで、あくまで銀さんっていう白くてフワフワした生き物と一緒になる気でいたみたい」
「フワフワした生き物ォ?」
言葉に出してみると滑稽だ。オネーサンの結婚相手は定春だったんですかと苦笑しながら、銀時はテーブルに頬杖をついて妙の言い分を聞いてやる。
「つまるところ私は結婚というものを侮っていたのかもしれません」
湯気立つカップに口をつけながら、まだ二十歳だというのに妙がしみじみと言う。
「銀さんの年齢を知った瞬間に現実味が増した気がします。三十近いおじさんの人生をこれから引き受けることになるんだわと思ったら、なんだかこう急に、肩が重たくなってきちゃって」
「誰がおじさんんんん!?」
ガタガタと座席を立ち上がる。また周囲から視線が集まるが、やっぱりカップル間のいざこざだと判定されたらしく、さっきより客の視線が散るのは早かった。
「だいたい、重たいってお前が言うのかよ。どっちかっつーと俺のほうが重たく思ってるからね」
「はい? 誰が重たい女ですって?」
そーいう意味じゃなくてさ、と銀時は手をひらひら下に振る。
「お前はアレじゃん。引く手あまたっつーか、ほかに男選び放題なのに」
「ほかを選んでよろしいんですか?」
「バッカお前、フツーそこは『大勢いるステキな殿方の中から銀さんを選んだのよ』とか言うとこだろ」
「私という女に世間一般のフツーが通じると思ったら大間違いですよ」
笑顔で規格外な女を自称する妙は、事実マジモンの規格外だったので、そーいやそーだねと銀時は納得して引き下がる。
「そもそも選ぶなんて、考えたこともなかったんですってば。はじめから選択肢なんてあってないようなものだったのよ。気がついたら銀さんが隣にいたから、この先もいるものだと当然のように信じてるんです。そばに居て欲しいなって思う瞬間がずっと続いたなら、それはもう、銀さんを選び続けているってことにもならないですか?」
「……」
「ちょっと。なによ黙っちゃって。ねェ、銀さんは違うんですか?」
「いや、違わない、けどさァ」
なにこの空間。居たたまれないんですけど。この会話は銀時も妙もだいぶ声を潜めて行ったものだが、つい周囲の客の目を確かめてしまう。店内は無言で過ごす一人客が大半なのと、二人以上の客の誰もが会話が少なめなので、どんなに音量を絞っていても聞こえてしまっているのではないか。恥ずかしい会話してんなーとか周囲に思われていそうだ。話を逸らしたい銀時は目の前にある紙を指さした。
「で、コレどーする。年齢発覚のショックがでけーなら、やめるか?」
「まさか」
もう落ち着きましたから、続きをどうぞと妙に促される。
銀時はテーブルの上に転がる万年筆を拾い上げ、ペン先を紙に滑らせた。今度は邪魔が入らず安心したのもつかの間、迷いなく記入していく銀時の様子を見て、おかしい、と妙が不審げに呟いた。おかしいって、なにがだ。
「私が記入した時は、なに書けばいいのかわからなくて手が止まったり、注意書きを読むのに時間が掛かったりしたのに、なんだか銀さん手慣れてませんか。ひょっとして書いたことあります?」
「それどーいう意味」
躊躇いが無いのは先に妙が記入するのを見ていたからだ。聞き捨てならないセリフに万年筆を持つ手がまた止まる。
「銀さんってホントに初婚なんですか?」
「ったりめーだろ。初婚の欄にチェックつけただろーが。俺をなんだと思ってんの」
「家の前に赤ん坊置き去りにされて心当たりがいくつもある人」
「………………結婚はマジで心当たり無いから」
「実は毎月こっそり養育費払ってたりしませんか」
「しない、しないから。なにその新設定。お前ね、仮にもジャンプ主人公にとんでもない設定を付与するんじゃありません。これが初婚だし、お前が正真正銘、俺のはじめての嫁さん。嘘じゃねーよ。え、なにその目は。信じろよ」
「はァ、仕方ないから信じてあげます」
「そのクソデカ溜め息いらないよね。俺に聞かせる必要絶対に無かったよね。仕方ないからってなに。俺ひとつも疑われることしてないのにさァ。全部お前の被害妄想のくせに信じてあげますってそれはいかがなもんかと、」
「仕方がないので銀さんのはじめてのお嫁さんになってあげます」
「……ああ、そう、そりゃどーもねウン」
はっきり告げられると、どうにも言い返せなくなった。
はじめての嫁さんだとかは銀時の言葉だったが、いざ妙の口から飛び出すのを聞いたら破壊力がものすごい。指先から力が抜けて文字がへろへろに曲がりそうになるが、なんとか最後まで紙を書ききることに成功した。記入する順番は妙が先だったので、紙の左半分は埋まった。残るは紙の右半分だ。
「誰に証人になってもらいます?」
「ババアと、あとは長谷川さんとか……あ、住所書くとこあるからダメだ」
長谷川さんって、いまどこに本籍あるんだろうか。公園に住んでるなら住所そこでいいのか。てか最近あの人見ないけど生きてんのかなと、銀時は最後に長谷川に会った競馬場を回想する。
もし駄目だった時のために(この駄目は長谷川さんの生死とかそういう意味じゃないから!)証人候補はほかにも居たほうがいいだろう。何人か検討をつけながら、そういえば天人がNGという記載はないが、新八も神楽も証人になれる年齢にまだ達していないんだなと思った。
「成人した、それもたった二人だけなんて、お国も酷なことを言いますね」
頭の中で候補を絞っていたらしい妙が、承認の欄を見つめながら悔しそうに言った。
「新ちゃんや神楽ちゃん、証人になってもらいたい人はほかにもたくさんいるのに。ねえ銀さん、三人目以降も書いたら駄目かしら。たしかに正式な証人の欄はふたつしか無いけど、ふたりまでしか書いちゃいけないとはどこにも注意書きされてないじゃない?」
「おめーはどこの一休さんですか。んなことが許されてみろ、寄せ書きの色紙みたいになっちまうだろーが」
紙の片面いっぱいを埋め尽くさんばかりに、集中線のごとくビッシリ記された証人たちの名前を想像する。いっそ署名と言わず、知り合い全員から一言コメントでも貰ってやろうか。九兵衛あたりに頼んだら毛筆で「銀時許さん」と書かれるのだろうなとか、完成図を想像して笑いがこぼれたし、書類を受け取るお役人の困惑顔が目に浮かぶようだった。
「今日中に証人も埋めてもらうか?」
ババアの店ならまだ暖簾が掛かっているだろうからと、銀時はスナックお登勢の営業時間を思い出している。こんな男でいいのか考え直せと妙に向かって説得するかも知れない。ただし両名が本気だとわかれば二つ返事で署名してくれるだろうし、もうひとりの証人だって、深夜だろうが叩き起こしても許してもらえそうな、懐の深くて信頼できる知り合いが銀時たちには何人も居た。
「そこまでしなくて、いいです」
伝票片手に退店しそうな勢いの銀時に向かって「ありがとうございました、もうこれで満足しましたから」と妙がお辞儀した。
本当にいいのか、と聞くと妙は大仰にこくんと頷いた。まるで自分自身を納得させるみたいな動作だと思った。
おのれがいかに狡くて理不尽なことを言ってる自覚はある。それでも口は勝手に開いて、もしも、と銀時は告げた。
「紙切れ一枚でお前の心配事が無くなるってんなら俺ァ何枚だって書くぜ。俺かお前のどちらかがコレを破り捨てたって、すぐまた新しいの用意するから」
「なんですそれ呪いの手紙ですか」
やめてくださいなホラーが苦手なのはお互い様でしょ、と言って妙は、そこでようやく笑顔らしい笑顔を見せた。
「銀さんアナタ、私と一緒になる気なんてさらさら無いんでしょう」
今宵、銀時がすまいるに迎えに行くと妙はいつになく饒舌だった。
常ならば会話がぽつぽつあるだけの帰路も、とりとめないことをつらつら話し続けていた。話題は、妙の職場から寿退社したキャバ嬢の話、結婚式の引き出物がカップルの顔写真つきの絵皿で使い道に困っている話、長年の清いお付き合いの末に結ばれたはずの彼らが実は交際一か月のデキ婚だったのが両親親戚一同にバレて幻滅されたという話。付き合いが長かろうが短かろうが、しっかり段階を踏んでいようがデキ婚だろうが、結婚のタイミングやキッカケがなんだって別にいいのにねと妙は話を締めくくった。そこで初めて銀時は妙の意図に気付いたが、話題をすり替えるには遅かった。
「ね? そうでしょう銀さん」
同意を求めるように名前を呼ばれた。
「キッカケなんて無くても。タイミングなんていつでもいいんですよ」
どんな返答を求められているのか察してしまい、けれども求められるままに言葉を返せない、返す言葉を持たない自分をもどかしく思いながら、ああ、とか、そーだな、とかやっと返せた返事はそれくらいだった。やはり他人事みたいな返事をしたのが気にくわなかったらしくて妙はムッと唇を結んだ。
「したくなった時にすればいいだろ、いつでもできるんだから」
それは見事に妙の地雷を踏み抜いたようだった。そして、私と一緒になる気なんて無い発言につながった。銀時の憶病で面倒くさいところを毎度「わかってますから」の一言で受け入れてきた女だったから、妙の口からそんな言葉を聞くとは思わなくて衝撃を受けた。黙りこんだ銀時を、そら見たことかと妙は鼻で笑った。沈黙を肯定と取るなと文句言えば「だったら今すぐ結婚してください」と言われて、脈絡が無さ過ぎるだろ、だったらの接続詞が意味わかんねーよと頭を抱えた。こっちだってな事情があってだな、と銀時が舌先に言い訳を載せるとすぐ、そんなの承知の上ですと返答がある。
「アナタの正体を知っていますよ」
妙の顔を見て銀時はぎょっとする。笑って涙を堪えることばかり上手い女が、笑うことも涙を堪えることも難しそうに顔を歪めていた。
「ええ、わかってますとも。ただね、私も銀さんと同じくらい時々どうしようもなく怖くなります。私が誰のものにもならないでいるのは、一体誰のためだと思っているのよ。銀さんのことだから、誰かをとくべつ愛情深く抱えたがらないのは失うのが怖いからなんでしょうけど、それって一緒になれないまま死ぬより怖いことかしら」
──あの時だって、その時だって、私、銀さんからの言葉を待っていたのよ。
堰き止めていたものが溢れるように。これまで銀時に期待して裏切られてきた出来事を妙は覚えていた。五、十、十五と指折り数えて最後に折りたたんだ指で完成した握りこぶしが、ぽすんと銀時の肩を殴った。常ならあるはずの吹っ飛ぶような衝撃が無かったのに、銀時がいままで妙に受けた暴力のなかでいちばん痛いこぶしだった。
この女と対峙するとき、常に真っ向勝負しかないのだと銀時は知っている。心まで裸になってこいと下着ドロの前で啖呵を切った妙の姿を思い出していた。
二人が立ち尽くしている場所は、すまいるから近い繁華街だった。もしお前の店の客や嬢が通りがかったら、オーナー様の立場が無いぞとなだめて、好きなだけアイス買ってやるからと銀時は近くのコンビニへ妙の背中を押しやった。
目的のものはすぐに見つかった。アイスの並ぶ冷凍庫の前をウロチョロしている妙から離れて、愛読している漫画雑誌が山積みになっているその横、普段は目もいかない女性誌コーナーに置いてあった。付録の櫛が可愛いからと、神楽も一度欲しがったことがあるそれは、流行りの式場やらドレスやら、毎号結婚を特集している雑誌という知識しかなかったが、こういう雑誌には毎号必ずアレがついてくるのだ。
アイスを買ってくれるのではなかったかと不満げな妙に、銀時はレジを通したばかりの雑誌を突きつけた。
「これの付録についてる婚姻届、いますぐ書くからお前も書け」
不意をつかれて固まる妙の手を取りコンビニを出た。横断歩道渡って一直線に進んだ先に建つ二四時間営業のファミレスへと乗りこんだ。
テーブルに案内されるやいなや雑誌から付録を剥がしはじめた銀時に、違う、違うと妙は首を横に振った。いいですからもう止めてください。ちっともよくないだろ。いいですってば私がいいと言っているのに。ああそうだお前から言い出したんだから最後まで責任持て。しばらく問答が続いたのち、折れたのは妙のほうだった。
「こんなふうに銀さんに無理強いして書いてもらいたくなんてなかった」
いますぐ結婚しろとさっきまで言っていた口が「もし、どうしても書くって、銀さんが言うんなら」と歯切れ悪く続けた。
「これは練習ということにしてください。銀さんに少しでも結婚の意思があるとわかっただけで、私は満足ですから。これから抱えるものの大きさに足がすくんだなら途中で書くのをやめたっていいです。ほんとうに私と一緒になる覚悟ができたらその時は、もう一度書いてください」
ひとがどれだけ勇気を振り絞って購入したと思っているのだろう。妙の言葉のせいで、付録の婚姻届が突然効力を失ってただの紙切れになってしまった。
呆然としている銀時を見て、妙はくしゃりと笑った。
「そもそも銀さん、コンビニで雑誌しか買ってないじゃない。紙だけ用意して、どうやって書く気ですか」
やっぱり本気じゃないんでしょと笑って、妙は財布や小物が入った巾着から万年筆を取り出したのだった。
「意外とあっさり書けるもんだな」
「ええ。あっけないものです」
時間にして来店してからまだ三十分と経っていない。書き損じたら二冊目を同じコンビニまで買いに走る気でいた。お互い初婚なのだし、記入にもっと手間取ると思った。それこそ、この女を手に入れるために掛けた労力に比べたら屁でもないが。
「本番の時もこんなふうにあっけないのかしら」
うつむき加減になった女の肩が震えた。
銀時は首を低め、横から覗きこむようにして妙の顔を見た。桜色の唇が白くなるまで噛みしめられている。噛んだら血が出ちまうぞ、と手を伸ばせば、その些細な刺激で、ぽろりと涙がすべり落ちた。道端で妙の目尻にひかるものを見た時、どうにか泣かせまいと必死こいてファミレスまで来たのに、結局泣かせてしまって不甲斐ない。せめて紙が濡れないようにテーブルの端に避難させた。
「ごめんなさい。私、銀さんを試すようなこと言いました」
すん、と鼻を啜る音が聞こえて、銀時は銀髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。おかしいだろ。だって謝るべきはどう見てもこちらだ。無理やり婚姻届を書かせた挙句、惚れた女を泣かせているんだから。
銀さんの初めてのお嫁さんになってあげますという約束を妙は違わないだろう。つまりこれを出さない限り妙は誰の者にもならないし、一緒になる覚悟とやらが銀時にできるまで二枚目を書こうとしない。永遠に、初婚の花嫁に留めておける。妙を泣かせておきながら、陰でその事実にどうしようもなく安堵している己は馬鹿だろう。
妙の合意なしには効力を発揮しないが、練習とはいえ婚姻届自体は本物だ。これ一枚書けば惚れた女が手に入ってしまう、恐ろしい紙だった。誕生日も年齢もなにひとつ真実でない人間のプロフィールを記した紙で交わされる契約など契約と呼べるか甚だ疑問だが、それでもお役所はお構いなしで、こんなものでも本当に妙を永遠に縛りつけていられるのだという。じっと紙を見つめる銀時の視線をたどるように、妙がおもてを上げた。
「練習でも、こうしてふたりの名前が並んでるのを見れてうれしかったです」
涙の粒のついた睫毛を震わせて、妙がテーブルの上の紙を見つめた。ああ、それはよくわかる。心からの同意を示して銀時は目を細めた。夫になる人。妻になる人。筆致も性別も年齢も違うふたりが横並びになって、いまはまだ違和感の残るそれも、馴染む日がくると思ったら純粋に楽しみだと思った。当たり前のように受け入れる日が来るのだとも。
カサ、と紙同士の擦れる音がした。
店内の照明を跳ねかえす白い指が、テーブルの上の紙を丁寧に四つ折りにする音だ。
「じゃあ、これは記念にもらっておきますね」
「ンだそれ」
「ええと……仲直りの、記念?」
発言してから、その幼稚さに気付いたのか、くすぐったそうに妙はクスクスと笑った。
「銀さんが私と生きる覚悟ができるまで、アナタがまだひとりで居たいなら居させてあげます」
その覚悟とやらができるのはいつ頃を指すのか、妙にも銀時にも測りようがない。きっと妙には絶望的な言葉だろうに、つとめて明るい声色で話してみせるものだから逆に痛々しい。
「ただし銀さんが大怪我したりポカやらかした時は、いま書かせたこれ見せて脅してやるんだから。せいぜい気をつけてくださいね」
得意げになった妙曰く、銀時が命に関わる怪我をしたり不義理な行為をしようものなら、今夜のごとく一緒になる覚悟はあるのかとたびたび脅しをかけるつもりだという。その紙は本来、脅しとかそんな使い道をするものじゃないはずだし、そんな使い方をする日など一生来なくていいとさえ銀時は思う。
折りたたんだ紙を上から押さえる妙の指が、テーブルの上をスススと移動する。
銀時が逆方向から紙の端を指で押さえたので、妙から怪訝な目を寄こされた。「手を退けてくださいな」「ふたりで引っ張ると破けちゃうじゃないの」と文句を言われた。
そうだ。破いちまったらダメだ。絶対にダメだと思って、銀時は紙から手を離すかわりに妙の人差し指をつかんだ。
きゅっと指を握る男と、指を握られて紙を動かせなくなった女がテーブルを挟んで見つめ合う。
「仲直り記念とかじゃなくて」
「はい」
「どーせなら別の記念にしとくか」
目一杯に見開かれた瞳と視線がぶつかる。
妙が常日頃から理想だと訴えてやまない月九ドラマみたいなプロポーズと縁遠いシチュエーションで、銀時だってこんなタイミングで告げた自分が信じられなかった。それでも人生の節目って意外とそんなものなのかもしれない。惚れた女の前では理想のタイミングとかキッカケとか取り繕う余裕すらなくて。これ以上この女を泣かせたくないと思った。そばでずっと笑っていてほしい。自分のせいで女の笑顔を曇らせるようなことはしたくない、させないと誓う。
ひとはそれを、覚悟と呼ぶのだろう。
「やっぱり私が無理を言ったからでしょう」
「違ェわ。たしかに俺ァいつでもできるとは言ったけどよ」
「ええ、それはつまり「だから、いますぐ結婚したい。いますぐ俺の嫁さんになって」
は、と妙が息を呑む。
銀時の切実な眼差しと強く掴んだ指先の震えが本気だと告げていた。
ハイ、と妙が頷いた瞬間にファミレス全体の空気が変わった気がした。やっぱり会話は店中に筒抜けだったんじゃねーかと恥ずかしくなるが、妙から返事を貰えたら、すべてがどうでもよくなった。
「ババアと誰かからサインもらって、さっさと出しに行こうぜ」
「え。いまからですか?」
「いますぐしたいって言ったろーが。婚姻届ってたしか二四時間受付してるよな?」
「どうしてそう変なところで思いきりがいいんです」
「糖分摂ったら頭回ってきた」
卓の上のカップを手に取り、残ったいちごミルクをごくごく飲み干す。そんなの理由になってないわよと妙が憮然と言い返す。
伝票を持った銀時が座席から立ち上がる。
「ハンコある?」
あります、と妙は職場を出た時から持ち歩いている巾着を掲げてみせた。さすがはオーナー様だ。生憎と銀時は手ぶらなので、まずは事務所のある二階を目指した。
万事屋までの道のりはお互い自然と早足になった。階段を上り下りしたせいで、一階の居酒屋の暖簾をくぐる頃には銀時も妙も息を切らせていた。婚姻届を持って現れた彼らを交互に見つめると、相手はカウンターの奥で穏やかに目元を緩めた。
「なんだ、アンタやっと腹括ったんかィ」
ウッソだろ、まだなにも言ってないのに。年老いた猫は化け猫になるしババアも年取ると化けて超能力の一つや二つ使えるようになんのかと仰天する銀時だったが、かたく手を握りしめ合って現れた男女を見て、カウンター席を陣取る宵っ張りの客たちからも、やっとか、銀さんアンタ遅いよ、お妙ちゃん良かったね、という一様な反応を寄こされる。誰一人として驚く者が居ない事実に、ひくひくと銀時の頬が引き攣る。
──そーいうことか。これはつまり、いつか銀時たちが、こうなることは誰からも予見されていたのだ。最初は銀時がそろそろ身を固めたいと言い出すまでいくらでも待つつもりであった妙も、あまりにも周囲が早くくっつけと急かすのに、当の本人がまったく自覚ないのを流石に腹立たしく思って、今夜のごとく爆発したんじゃないのか。
答え合わせをするように、ちらと隣を窺うと、いたたまれないといった様子の妙が目を伏せていた。そんな顔を見たら、ああもう俺が悪うございました! とその横で蹲ってしまいたかったのに、周囲がそれを許してくれない。
「覚悟はできたんだろう。さァさ、紙をお出しよ」
待ちかねていたみたいに女主人が笑った。
#原作
初婚練夜 '20210711
2021年夏に開催された銀妙Webオンリー「天の川の下で待ち逢わせ」で無料公開したお話です。
FINAL公開スペシャルで銀さんの年齢が明らかになったショックを引きずったまま書きました。ちょっと奥さん、九歳差(公式)ですってよ!
十月の銀妙強化月間の期間だけ十歳差になるのオイシ~!