飛ばない洗濯物

「♪」

 とおくで誰かが歌をうたっている。
 幼い頃から僕の耳に聞きなじんだ、転がる鈴の音みたいな声で。
 ゆっくりと、目をあける。眼鏡のレンズを通さない、ぼやけた視界に天井らしき焦げ茶色が見える。仰向けに寝かされている僕の体を覆うのはフワフワしたなにかだ。鼻を埋めてみると実家の布団の匂いがした。

「よォ」

 起きた? と白くて大きな影は銀さんの声を発した。ぬうっと伸びてきた腕が渡してくれた眼鏡を掛けると、輪郭の曖昧だった僕の世界が像を結び、隣の布団の上であぐらをかく銀さんの、起きたばかりで眠そうな目元も、額や頬に残る生々しい傷跡も、甚平の裾から伸びる包帯ぐるぐる巻きの手足もよく見えた。

「おはようござ、う、ッイタタ……」

 何気なく布団から半身を起こそうとして、失敗した。全身の関節が言うことを聞かず、銀さんに負けないくらい包帯人間の僕は、呻き声を上げて芋虫のように丸くなった。

「あーあー、まだ無理すんなって。あんだけ無茶したらそーなるわ」
「そーいうアンタはなんでフツーに起き上がれてんスか」

 僕を見下ろしてくる銀さんが「俺は慣れてっから」なんて平然と口にしてみせるから、彼に庇われた経験の少なくない僕は不甲斐なさを覚えると同時、腹立たしくてたまらない。僕らがもっと強くなったら、そんな慣れなんか忘れて一緒に痛がってくれますかと言ったら、この人なんて顔するかな。
 銀さんとは逆方向に顔を向ければ、廊下側に敷かれた布団の上でぐうすか気持ちよさそうに眠る女の子の姿を見つけて、僕はホッと安堵の息を吐いた。
 さっきと違って今度は慎重に体を起こした。膝をつけたまま近寄って、傷の具合はどうかなと枕元を覗き込んだ瞬間、ばちっと神楽ちゃんの目が開いた。

「レディの寝込みを襲うとはサイテーアル」
「いやそんなつもりじゃ……あッ! 痛い痛い!」
「へ? まだなにもしてないのに勝手に痛がって変な奴アル……ってイタァ!」

 飛び退いた僕を筋肉痛と打撲の激痛が襲った。突然暴れだした僕を不審がる神楽ちゃんも、起き上がるなりウガァァと叫んだ。夜兎族の彼女でも回復しきらないほどダメージが残っているみたいで、二人して畳の上をのたうち回った。
 傍で見ていた銀さんが、庭の方に目をやって人差し指を唇の前で立てた。

「オメーらちょっと、しずかにしてみ」

 面白いモン聞けっからと言われ、僕らは口を閉じた。静まり返る室内。
 しばらくして僕と神楽ちゃんが、あ、と声を上げる。

「アネゴの声ネ」
「珍しくBzじゃねェみてーだな」

 にや、と笑って銀さんが障子に手をかけた。
 廊下に出ると、いっそう声は高らかに聴こえる。立春のつめたい風が、庭先で洗濯物を干している姉上の歌声を僕らの場所まで運んでくれた。こちらに背を向けた姉上は、僕らの存在にまだ気付いていない。もし気付いたなら、いつぞやの無人島の時みたいに恥ずかしがって歌うのをやめてしまうかもしれない。それは勿体ないような気がした僕は、隣にいる銀さん神楽ちゃんと目配せし合った。満場一致で、姉上がこちらを向くまでもう少しここで見守っていようということになった。
 姉上の手際は流石だった。たすき掛けした細腕が、水を吸って重たそうな布の塊を簡単に抱え上げ、風に攫われないよう洗濯バサミで素早く止めていく。
 洗濯かごから一枚ずつ取り出されては干されていくシーツ、タオル、包帯、着物。どんな魔法を使ったのか、昨日はあんなに真っ赤な血と泥まみれだった僕らの着物がきれいさっぱり洗われて、お日様の下で輝いている。
 すると突然、歌がやんだ。不自然に途切れた歌詞。どうやら曲の終わりを迎えたわけじゃなさそうだった。
 直後にひときわ強い風が吹いた。春一番とはいかなくても庭木の枝をしならせるほどの荒々しさを以て、洗いたての僕らの着物がはためく。一枚一枚ていねいに姉上が干してくれたから、攫われてしまうことは無いはずだ。でも、姉上は怯えるように腕を伸ばし、バサバサ暴れる着物をまとめて抱きしめた。
 次に風が運んできたのは歌ではなかった。ちいさな祈りのことばだ。
 どっかに飛んでいっちゃいやよ、みんながはやく元気になりますように、と。

「姉上!」

 とっさに名前を呼び、僕は駆け出した。昨夜の戦闘で酷使しすぎた筋肉が悲鳴を上げようとも、小石を踏むはだしの裏が痛かろうが、そんなの構わなかった。いますぐあの人を抱きしめたいと思ったら、走り出さずにはいられなかったのだ。

「どうしたの急に、ふたりとも」

 姉上のもとにたどり着く寸前、横から強い衝撃があった。一拍遅れて、誰かと肩がぶつかったのだと理解する。慌てて隣を見れば、息を切らしている神楽ちゃんも僕を見て目を丸くしていた。同じ衝動に駆られた僕らは必死なあまり、お互いのことをまるで見えてなかったのだ。恥ずかしそうに俯く神楽ちゃんにつられて僕も指で頬を掻いた。

「だめよ、いまは安静にしてなきゃ。どんなに強い侍にも休息は必要よ。はだしで駆けっこなんてもってのほかだわ」

 裸足で駆けつけた僕らを見て、姉上はお説教モードに入ってしまった。突き刺すような視線が厳しい。言うこと聞かない子どもにも大人にも、姉上は本当に容赦がない。いますぐにでも室内に連れ戻されそうな気配に僕は慌てた。

「ええ、安静にします。ちゃんと治します。ここに来たのは僕らが元気だってこと、姉上に伝えたくて」
「アネゴ、心配させてごめんヨ」

 ぺこりと頭を下げた神楽ちゃんにならって僕も頭を低くする。頭上から落ちた影は姉上の手だった。僕らの頭を撫でようとして、しかし手は宙をさまよった。
 おもてを上げた僕らを、姉上はなにも言わず交互に見つめた。まるでなにかを待つみたいな沈黙のあと、仕方ないわねえと姉上が苦笑した。

「謝るよりも先に、まず言うことがあるんじゃないかしら?」

 え、と思って神楽ちゃんと見つめ合う。べたべた顔にガーゼと絆創膏を貼り付けて体中から湿布の匂いをぷんぷんさせている僕らは、心配させてごめんなさい以外の言葉が思い浮かばなかった。
 どうしよう銀さん。どーしよ銀ちゃん。助け舟を求めて僕たちは背後を振り返る。縁側で足を投げ出して座る銀さんがこちらを眺めていた。

「俺ァ寝ちまったてめーら背負って昨日ここに来た時、ちゃんとお妙に言ったからな」

 いったいなにを、と思うより先に口が正解を導いた。どうして忘れていたんだろう。銀さんの言ったとおり、昨日ここに運び込まれた僕らは疲れ果て気絶していたから、姉上に言うべき言葉をまだ言ってない。
 ふたり同時に勢いよく振り向き、ムズムズする唇を開く。

「「ただいま!」」
「はい、おかえりなさい」

 姉上の手が今度こそふたつの後頭部を引き寄せる。正解だと伝えるみたいに姉上から抱擁を受けた。鼻をつくのは石けんの匂い。姉上の着物はすこし濡れている。まだ水気を含む洗いたての僕らの着物を抱きしめたせいだと気づいたら、姉上の背中にまわした僕の腕の力は強くなった。
 背後から土を踏む音が近づいてくる。サンダルを履いた銀さんが庭に出てきたのだ。姉上に飛びついて離れない僕らを横目に、銀さんは包帯の覗く頭をガシガシ掻きながら「俺がただいまって言った時と、だいぶ対応が違うと思うんですケド」と文句を言った。

「少しくらい俺のことも労ってくれてもよ」
「銀さんもこっちに来ていいですよ」
「えっいいの、ホントにいいの」
「ダメですよ銀さん。姉上のここはもう満員ですから」
「ムフ。アネゴの胸は私のモノネ」

 勝ち誇った顔をふたつ並べると、あらあらと姉上が嬉しそうに言い、銀さんはケッと拗ねた声を出した。

「ちなみにさっきの歌、なんてタイトル?」
「やだ、銀さん聞いてたの?」

 曲のなまえなんて別にいいじゃないと姉上がはぐらかそうとする。

「僕も気になってました。聴いたことない歌だったから」
「なんかのドーヨーネ?」

 僕と神楽ちゃんの追求に姉上がしどろもどろになる。実はこの曲はね、と教えてくれる声はうわずっていた。

「みんなが帰ってきてよかったねの歌です」
「は? そんな馬鹿みてーな曲があるかよ」
「あるわよ。……私が作ったの」
「マジでか」

 馬鹿みたいな曲名で悪かったですね、と顔をそらしてしまった姉上に、馬鹿にして悪かったよと銀さんが珍しく素直に謝るのを見た。
 良い歌だったヨと神楽ちゃんの激励に、照れくさそうに姉上がはにかんだ。それは、帰ってきて良かったと僕らが心から思わずにはいられない、晴れ晴れとした笑顔だった。


#原作
飛ばない洗濯物 '20220205
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